言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

熊川(2)

2006年12月05日 | Weblog
 眠りに落ちるのは速かったのだが、その割りには眠りは浅く、しばしば目が覚めてばかり居た。
 長い旅に出たときの感覚特有の、親しみのない空気が周りを囲んでいる。
 肩の辺りが寒くてその度に布団をかけ直しまどろむという繰り返しが無意識に続いた。
 その内に部屋の壁全体が薄明るくなり始め、次ぎに目覚めたときには頭の明かり障子が輝いていた。
 日が差し込んでいるようだ。
 が、それにしては光が如何にも強い。
 冷え込んだ空気に抗するようにして起き上がり、丹前を重ね着して、縁の薄く白いカーテンを引いて外の景色を見て驚いた。
 山深く入り込んで辿ってきた夜の道の記憶が消し飛んでしまった。
 空が一杯に広がっている。
 片々とした白い雲が流れてはいるが、透き通った青い空が視界を占めているのだ。
 意外な景色の展開に見とれていた。
 ようやく目を下に落とすと、谷奥の宿にいるにも拘わらず明るいわけが分かった。
 谷筋は東に流れていたのだ。
 右手の尾根筋はなだらかに稜線を下げると共に少しずつ北に向けている。
 と同時に、左手の山の斜面も揃えるかのようにして、向きを同じくし、その為に視野の殆どが青い天空になっていたのだ。
 しかも右手尾根筋は黒々とした蔭でも対する左手斜面は銀色に眩しい。
 所々光線の具合に因るのか金色も帯びている。
 あまりにも予想外の光景に、時を忘れて暫く見入っていた。
 どれくらい時間が経ったのだろうか、やがて下の階に幾人かの複数の物音と気配が耳に入ってきた。

熊川-若狭

2006年12月04日 | Weblog
 ドンドンと深くなる雪の道を山奥へと上っていく。
 辺りは真っ暗なので一体どう言うところに来たのか皆目分からなかった。
 当に鄙びたと言う言葉がピッタリの一軒きりの宿に、それこそ連れてこられた態であった。
 慌ただしく運ばれてきた夕餉の膳を目の前にしたときは、山菜尽くしの変化形に如何にも山奥に来たものだろうなと感じた。
 こぢんまりした風呂は鉄釜のいわゆる五右衛門風呂で、冷えた身体にはチリチリとした感触が気持ちいい。
 河内温泉という何処にでも有りそうな土地の名である。そして、沸かし湯では有っても意外にも温泉である。
 落ち着いてみるとなす事もない。
 思いもしなかった自らの行動を振り返って青春の興奮が冷めてみると、しなくても意味のない後悔が一瞬湧いたのだが、布団に潜り込むや眠りに落ちていった。

上中-若狭

2006年12月03日 | Weblog
 これも青春真っ盛りの頃のことだ。季節は春を迎えていながらも、まだまだ深々とした冬の名残の尾を長く残していた。
 敦賀から汽車を乗り継いで海岸近くを走っていると思っている内に、行く手の両側に山が迫って来て、大きく右に曲がってたところで駅のホームが見えてきた。
 夜目にも白く明るい。
 深く雪が積もっているのだ。
 いきなり胸撞く衝動に身体が反応して、簡単なかばん一つを抱えて降り立った。
 それが上中町との初めての出会いである。
 小さな駅舎ながらも売店があって、如何にも親切を顔に表しているおばさんが声を掛けてくれた。
 そうなのだ。何処へ行くとも、何のために降りたとも説明の付かない青春の気儘な一コマという姿を現していたのだろう。
 私は「宿は無いのか」という直截的な言い方はしなかったろうが、意図を察して山中の宿を紹介手配してくれ、タクシーの運転手にも事情を言って若者の気紛れに付き合ってくれたのだ。
 上中の駅とあのおばさんとは切り離して存在しない。
 そして又、水上勉という作家の足跡との出会いでもあった。

遠敷郡-若狭

2006年12月01日 | Weblog
 文献で「若狭國遠敷郡」の名前が出て来るのは、神亀四年(727)の閏月七日と記してある木簡が最初の記録である。
 平城京出土だから、遙々と塩(税)を納めるために運んで来た時の記録なのである。
 「大安寺伽藍縁起拼流記資財帳」天平十九年(747)には「乎入郡」と記されてある。
 小浜出身の江戸時代の国学者である伴信友「若狭旧事考」は遠敷の意味を解釈しているが、それを見ると、「小(美称)」+「丹生(美しい丹土)」に因んだものだという。
 ほぼそれで良いのではないかと僕も思う。
 丹生地名は各地に多くある。特段の「丹土」を産する訳でもないのだが、水銀や作陶には必需品なので注目はされる地名ではある。
 「和名類聚抄」には「乎爾不」の訓みがある。
 「不」に関しては、随分と以前に論を展開して述べたことがある。
 「生」と同じであって、産する場所や「土」そのものを表す「フッ(HMRK)」という朝鮮語から来た言葉という説明はしたのだが、関心は低い。残念ながら!