どくだみ草日記

過去の出来事を検索するために書いてます。

とても嬉しいコメントへの返信が遅れます事、ご容赦願います m(_ _)m

神社仏閣<武州岩槻総鎮守久伊豆神社(再訪)>

2019年12月09日 | 御朱印と神社仏閣


○武州岩槻 久伊豆神社 (再訪)
 埼玉県さいたま市岩槻区宮町2-6-55

御祭神;大国主命(だいこくさま)



前回2019/11/28に伺ってます。

その時の御朱印の孔雀の尾羽は閉じておりました。

毎月9日には広げている孔雀の印が押されると伺って、今日また再訪したという訳です。

気持ち…墨文字も丁寧かな (笑



挟み紙
     久伊豆神社由緒
  【御祭神】大巳貴命〈おおなむちのみこと〉(別名 大国主命〈おおくにぬしみこと〉)
 久伊豆神社は今から約千五百年前、欽明天皇の御代(539~571)出雲族の土師氏が東国移動の際 この地に出雲大社の御祭神であり開拓の神であった大巳貴命を勧請したのが始まりとされています。
 平安時代には武蔵野に勢力を誇った武士軍団「武蔵七党」のうち野与党と私市党の崇敬を集め、その勢力下にあった元荒川流域に久伊豆信仰が広まりました。戦国時代、扇谷上杉家の重臣、大田道灌が岩槻城を築くとその城郭内に総鎮守としておかれます。それ以降、江戸時代まで城の守護神として歴代城主から厚い崇敬をうけ、太刀や神輿など数々の品が奉納されました。近年では平成二十六年「平成の大造営」を行い多くの氏子崇敬者のご奉賛により社殿も新しく蘇り、その御神徳は益々高まっております。
○宮様ゆかりの孔雀について
 境内にて飼育されている孔雀は、昭和十三年(1938年)、朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王電化岩つきご来臨の折、当神社に下賜された三羽の子孫で、現在約二十羽を数えます。
 去る平成三十年には、孔雀が下賜されて八十年の佳節を迎え、春季例大祭では殿下の御摘孫、朝香誠彦様にご臨席賜り、玉串奉典並びにしだれ桜のお手植えをいただきました。また毎年秋季例大祭では、「孔雀の舞」を披露いたします。
   武州岩槻総鎮守久伊豆神社


  

  

神社仏閣<武蔵国一宮 氷川女體神社>

2019年12月09日 | 御朱印と神社仏閣

○武蔵国一宮 氷川女體神社
 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1

御祭神;奇稲田姫尊(くしいなだひめのみこと)
配祀神;三穂津姫尊(みほつひめのみこと) 大己貴尊(おほなむちのみこと)


3種ある中の2種を頂戴してきました。

左;梟の印   右;通常御朱印

三室  氷川女體神社  さいたま市緑区宮本鎮座
 当社は崇神天皇の御代に、伊豆も杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。
主祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、大己貴命(おおなむちのみこと)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)を配祀(はいし)している。
 当社の御手洗瀬である見沼を囲み、大宮氷川神社(男体社)大宮中川の中山神社(簸{ひ}王子社)とともに、三社深い関係にあり、「三室」を伝えてきた。
古代。女神を祀るところや、社殿が東方に向いているなど、その創立の古さと由緒を忍ばせている。
 中世以来。武門の崇敬を集めており、これらにゆかりある宝物も多い。徳川家康からは社領五十石を寄進され、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。
 古来からの御船遊(みふねあそび)神事は、見沼干拓後、磐船祭(いわふねまつり)として行われ、その遺跡が現存している。
 また、暖地性植物の繁茂する社叢(しゃそう)は天然記念物であり、ふるさとの森にも指定されている。


  

   手水舎

   拝殿 本殿

   祠 石碑

   竜神社 巫女人形

   社務所 境内の紅葉

神社仏閣≪調神社≫

2019年12月09日 | 御朱印と神社仏閣

○調神社(つきじんじゃ)
 埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25

<御祭神>
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)



御朱印;直書のみ
御朱印帳;11×16cm・\2.000



記帳をお願いした時、何の断りもなく御朱印帳を始めから終わりまで開きジロジロと見られた。
ネットで「お寺の朱印がある御朱印帳だった場合は断られる」とは知ってはいたが、人様の物を何の断りも無く開くのは非常に気分の悪いもので。
まるで裸にされてジロジロと見られているような嫌な気分になった。
一言「中を見ても良いか」と聞いて欲しいもんだ。

そして車で行ったのだが、まず境内駐車場へ入る前に警備の方に止められ、何の用事で来たかと問われたのは良い。当たり前だと思うから。しかし、私は彫り物とか屋根の形とかをじっくりと眺め楽しむので1時間は境内をウロウロするタイプなのだが。駐車スペースの近くを通る度に『まだか?』と急かされた。狭い境内の駐車スペースなので沢山の車が入ってきたら長いこと居座っている私のような人は迷惑なのは重々承知している。しかしだ、私の車以外はほとんど停まってないのに、なぜに急かす? 境内に車を置いてランチにでも行く輩がいるのかもしれんが、目の前をウロウロして写真を撮ったりしてるんだから解るだろうが!

神社として色々あったのだろう、とは思う。
しかし、神に仕える方々のこのような高飛車な姿勢はいかがなものか。
神社内総てがこのような姿勢であると思いたくないが・・・推して知るべしなのかもしれん。
一言で言えば…『気分悪!』
道理で境内の空気が澱んでいるはずだわ。 ←そこまで言うか(笑




浦和駅の南西500m、旧中山道東側に鎮座。旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔嗚尊の三柱を祀る。社名を調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」と愛称されている。
『調宮縁起』によれば、代10代崇神天皇の勅命により創建。調とは『租 庸 調』の調のようなもので、伊勢神宮へ納める調(貢)物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わる。(鳥居無きはその為と伝わる)平安時代に編纂された『延喜式』に記載される武蔵國44座のうちの1社である。
中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結びつき江戸時代には月讀社とも呼ばれ、月神の使いとされる卯の彫刻が旧本殿や現在の社殿に、狛犬の代わりに卯の石像が境内入口両側にある。神域は約12.000㎡。欅、銀杏の大樹が鬱蒼と茂る鎮守の杜と、江戸時代末に建立の権現造の社殿が、悠久の歴史を今に伝えている。
毎年12月12日には『十二日まち』が開催。神社では『かっこめ』を領布、境内を中心に縁起物の熊手をはじめ様々は露店が立ち並び、近在からの人手で賑う。

※調神社の七不思議・鳥居がない、境内に松の木がない、御手洗池にすむ片目の魚。祭神の使い姫は卯、日蓮上人駒つなぎの欅、蝿がいない、蚊がいないの七つ。鳥居が無いのは、伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるから。また、日蓮上人駒つなぎの欅には、文永8年(1271)上人が佐渡へ流される途中、難産に苦しむ土地の女性を救うため、駒をつないで祈ったといういわれがある。


  

  


由緒   畧記

当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔嗚尊の三柱を祭神とする。
延喜式内の古社にして より朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば㐧九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され
㐧十代崇神天皇の勅命により神宮齋主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ 武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる
倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る


     調神社の文化財
 調神社旧本殿(建造物)    昭和五十三年三月二十九日市指定
一間社流造り、屋根は銅板葺きである。向拝の軒は唐破風で、身舎桁行一・八〇メートル、梁間一・五〇メートル。これに奥行一・三〇メートルの向拝が付く。棟札により、享保十八年(1733)の建立であることが知られる。
 扇面三十六歌仙絵(絵画)   昭和五十三年三月二十九日市指定
紙本墨書で、料紙は金地扇面であり、三六面中一八面が現存している。寛文九年(1669)、将軍安泰などのため、近習四名が奉納したものである。
 神輿鳳凰(工芸品)      昭和五十三年三月二十九日市指定
神輿の頂につけられていた鳳凰で、鍍金した銅板で組み立てられている。高さ四八・五センチメートル、翼の広がり三六・五センチメートルで、全体に簡素であり、室町時代の作である。
 調神社扁額(書跡)      昭和五十三年三月二十九日市指定
ケヤキ材で、たて九三・ニセンチメートル、横五七・一センチメートル。正面に楷書で「調神社」とある。金箔が押され、享和二年(1802)に松平定信によって書かれたものである。
 調宮縁起(古文書)      昭和五十三年三月二十九日市指定
神本墨書、寛文八年(1668)九月、玉蔵院十二世寂堂が撰した。式内社である調神社の創建、祭神をはじめ、中世末期の荒廃、徳川家光の社領寄進等が記されている。
 調神社の境内林(天然記念物) 昭和四十五年三月十日市指定
ケヤキやムクノキの大木を主とする落葉広葉樹の古木林である。
    昭和六十年十月    浦和市教育委員会  調神社


   元調神社宮司

 
   手水舎のうさぎ

   神輿庫・旧社務所




拝殿

   拝殿のうさぎ

   社務所・神楽殿

  調神社稲荷社(調神社旧本殿)

   稲荷神社仮殿 池




萬延二年 板橋宿兼吉作 先代の狛兎

   境内社入口鳥居・手水舎

   境内社の金毘羅大権現と天神社