どくだみ草日記

過去の出来事を検索するために書いてます。

とても嬉しいコメントへの返信が遅れます事、ご容赦願います m(_ _)m

ポポラマーマ綾瀬店

2019年05月20日 | グルメ

○ポポラマーマ綾瀬店 (HP
 〒120-0005 東京都足立区綾瀬4-9-24 大室ビル2F
 ℡ 03-5849-3801
 営業時間 11:00~22:30 (ラストオーダー 22:00)

 綾瀬駅西口から徒歩1分。

 ランチ有り。
 平日ランチの待ち時間は少なめ、だけど人の流れは途絶えない。




アスパラとエビ・ツナのクリーム + ドリンクバー

\1.167


チェーン店。

歩き続けてて膝が痛かったので1時間位ゆっくりとしていたかったけど、ランチ時間で立て続けにお客さんが入ってきてて、4人掛けテーブルにズーーーッと1人が占拠してるのが申し訳なくて、食べたらすぐに出てきちゃった。

お味もパスタの茹で具合もとても良かった♪

ランチタイム以外ならゆっくりできる雰囲気なのかな?

接客はとても素晴らしかったです。

待たせるような事態になったとしても先に声掛けして客を安心させてました。

接客が忙しい状態になるだろうな、と思ったとたんに厨房から調理人が出てきてレジしたり注文取ったりと、連係プレーがとても良かった。

あの2人だからなのかな?

料金形態は普通、ドリンクバーはちょっと高い感じ。  f(^_^;)






夕飯は触発されてパスタを選択したくなって帰ってきたけど、ひっ君がパスタ嫌いなので直前で諦めた。

だからピーマンとかソーセージとかで炒め物 (^^;;

あとで気付いたけど、大好きな納豆と混ぜたものなら食べたのかなぁ?

そうしたら他の家族はナポリタンが好きだから食卓にのる回数も増えて、私もメニューが増えて助かる。

今度挑戦してみよっと♪ ( ̄∇+ ̄)v

神社仏閣≪根津神社≫

2019年05月20日 | 御朱印と神社仏閣

○根津神社
 東京都文京区根津1-28-9  HP

千代田線根津駅・千駄木駅より徒歩5分
南北線東大前駅より徒歩5分

※駐車場について:北口脇に有料駐車場(23台)。参拝の方は本殿脇受付にてサービス券発行。

健脚なら上野恩賜公園裏手から行ける範囲。
上野東照宮から森鴎外旧居跡を経て旧都電停留場(池之端七軒町)前を通り、不忍通り(池之端二丁目交差点)を右折、千代田線根津駅前を通り過ぎて、根津神社入口交差点を左折し2分。



初穂料 ¥300

社殿に向かって右の授与所にて頂けます。

〔奉拝〕と〔日付〕が手書きです。



◎ 根津神社  国指定建造物
日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神(うぶすながみ)として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。
社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財でらる。
 祭神は須佐乃男命(すさのおのみこと)、大山昨命(おおやまくいのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、菅原道真公である。
 境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「寒の大神碑」などがある。
―郷土愛をはぐくむ文化財―  文京区教育委員会   平成10年3月


◎ 文化財愛護   重要文化財<根津神社>
本殿・幣殿・拝殿・銅燈籠・唐門・西門・透塀・楼門
宝永3年(1706)建立


◎ 元准勅祭神社【東京十社めぐり】
根津神社・神田神社・亀戸天神社・白山神社・王子神社・芝大神宮・日枝神社・品川神社・富岡八幡宮・氷川神社




 

 
舞殿、楼門の鬼瓦

 
神橋と楼門、裏からみた楼門

 
正面左側の随身は第5代将軍・徳川綱吉公がモデル、正面右側の随身は水戸光圀公がモデル、伝えられています。
本当かどうかは定かではありませんが  f(^_^;)

   
透塀。

透塀の上からみた本殿

 
乙女稲荷神社と千本鳥居

 
徳川家宣胞衣塚  根津神社境内 文京区指定文化財
六代将軍家宣の胞衣(えな)を埋めたところと伝えられ、十数筒の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文二年(一六六二)四月五日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角を見て埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
塚正面には、明治十四年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
 ―郷土愛をはぐくむ文化財―   文京区教育委員会   昭和五十八年三月


 
乙女稲荷神社  祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
宝永三年(一七〇六)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。
霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の献納が絶えない。
現在の社殿は昭和三十一年に奉建されたものである。

右の額(?)ですが・・・
お狐様に蕪…ですよね? なぜに蕪なんでしょうかね?
っていうか、このお狐様、夏毛になったテンに似てません?
え? テンを見たことがない?  画像検索して下さいまし (笑


庚申塚

庚申塔(六基・根津神社境内)
ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以降、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。
正面から左回りに刻まれた像・銘文を見ると、
 ①青面金剛(しょうめんこんごう)・猿・鶏・寛文八戌申(一六六八)・駒込村・施主十五名
 ②観音像・庚申供養・施主十二名
 ③日月瑞雲(ずいうん)・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(一六九二)施主二十六名
 ④日月・青面金剛・申・延宝八庚神(一六八〇)願主一名
 ⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(一六三二)・都島[庚]馬米村・施主七名
 ⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名
  宝永六己丒(一七〇九)      ([]は欠けた文字)
この中で、⑤の庚申塔は、寛永九年(一六三二)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。庚申信仰は中国の道教から生まれ、六十日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組合せ)の夜は、人が眠ると、三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過した。また、祭神も猿田彦神、塞(さえ・さい)の大神=道祖神であるとの説もある。―郷土愛をはぐくむ 文化財―  文京区教育委員会  昭和五十六年九月




駒込稲荷神社

祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 級長津彦命(しなつひこのみこと) 級長戸辺命(しなとべのみこと)
根津神社が千駄木村より遷座する前、この地は六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷であった。その屋敷の守り神として、寛文元年(一六六一)に祀られた古い社である。綱重公は他の江戸別邸、桜田屋敷・三田屋敷・浜屋敷(今の浜離宮)にも同じ稲荷を祀っており、浜離宮内の祠は当所同様今も残っている。


 
駒込稲荷の神使である狐が左右に多数鎮座してます。こういう形の狛犬(?)を見るのは初めてです。


左手にあるのが乙女稲荷神社、右手の階段を登ると駒込稲荷神社



根津裏門。 面している道路を根津裏門坂といいます。

根津裏門坂
根津神社の裏門前を根津谷から本郷通りに上る坂道である。
根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神としえ創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。「我輩は猫である」を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築)
      文京区教育委員会  平成20年3月


/
 
根津神社北口より入ると町内神輿の収納庫らしき建物。


 
社務所(客殿)と、本殿をグルッと囲っている透塀。



千代田線根津駅か千駄木駅から不忍通りを通って根津神社入口の小路に入る。

それぞれの家々の戸口やら窓枠にはお祭りの時に提灯などを下げるための木片で設えた物が打付けてありました(撮ったつもりが撮り逃してます 汗)

お参りを済ませてからご朱印を頂戴し、敷地内を左廻りでグルッと歩き、最後にもう一度楼門を横から眺め鬼瓦を写し、地域的には山の手だけど下町風の町内を通って大通りに出て、千駄木駅から帰宅しました。


時間がなくて立ち寄れませんでしたが、『芋甚』『おいもやさん興伸』『根津のたいやき』などの結構有名なお店が近くにあります。

昔、台東区谷中との境を流れていた藍染川を利用して染め糊を落としていたのでしょう、『丁子屋』(染物・洗張)もあります。

(実は昔住んでた家の前を小川が流れてまして、斜め前の家が染物屋でしたので、その川を利用して糊を洗ってる風景をよく眺めてました。まだ学校にも上がってなかったなぁ、懐かしいなぁ ( ̄-  ̄ )トオイメ )

いやぁ、それにしても1日で6件の神社寺院を回ったら、さすがに疲れたわ。  f(^_^;)


後の2019/05/30に再訪し、摂社の御朱印を頂戴してきてます。

神社仏閣≪綾瀬稲荷神社≫

2019年05月20日 | 御朱印と神社仏閣


○綾瀬稲荷神社  HP
 東京都足立区綾瀬4-9-9

創建
 慶長19年(1614)正月吉日
由緒・沿革
 綾瀬稲荷神社の御鎮座は、江戸時代の初め、村人が浄財を出し合い、伏見稲荷より、御分霊を勧請申し上げて西向きに祀宇をし、慶長19年(1614)正月吉日に御鎮座されました。
 日本史上では、豊臣氏と徳川氏とが争った「大坂冬の陣」の起こった年にあたります。
 江戸時代は『稲荷神社』と称し、明治7年に『五兵衛神社』、昭和42年に『綾瀬稲荷神社』と改称し、400年の長きに亘り、地域の氏神様として、崇敬されております。
 拝殿の奥にあるご本殿は、天保14年(1843)築造の総欅造りの建物です。現在目にする拝殿は、昭和57年の建立です。

<HPより抜粋>






書置きのみ ¥500
社殿向かって左手の社務所にて。
他、みこしの図のも有り。




入口左のお知らせ板に‘其の一’と共に貼ってありました。





         


 
綾瀬 稲荷神社富士塚   綾瀬四-九-九
この富士塚は、神社境内右手南側にあったが、昭和二年に現在地に移築された。
塚は、溶岩で固めた岩山であり、高さが約二メートルある。
富士塚の頂上には、浅間社を祀つる祠が安置され、裏面に昭和二年七月一日の銘がある。
塔碑のうち、明治四十二年七月、山包丸渕講中の碑は、先達金子五兵衛外世話人によって献碑されたものである。最も美しい碑は山包(さんぽう)綾瀬講富士登山記念碑で、昭和三十六年七月に建立している。
講社は、はじめ山包丸渕講といい、この地の旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といった。農民を中心に綾瀬村で結成された。江戸時代より農民に広まった富士山信仰を伝えるものとして、この富士塚を昭和五十八年十二月に、また、山包丸渕富士講関係資料一式を昭和六十二年十一月に、それぞれ区登録有形民俗文化財とした。
  平成五年三月     東京都足立区教育委員会


いつかは富士塚というものを見てみたいと思ってました。
出来れば登りたいとも…
実は若かりし頃に登山にはまってまして、富士山にも3度位(4度か?)登ってるのですが、今の年齢と膝の悪さにもう二度と富士登山は無理だと泣く泣く諦めていたのです。
だから例え人工の山とはいえ登れるというか観られる富士塚に少々興味があったという訳です。
今回の富士塚は登ってはいけないとありますので登りはしませんけど、登山口から始まって一合目二合目…九合目に頂上、そして浅間社がちゃんとある♪
これが第一目的でしたので、神社より御朱印より、時間を掛けてじっくりと眺めるという不審者を演じてきました (笑


 
足立区指定第707号 保存樹木 たぶのき
当神社には保存樹が五本ありますが、本殿裏のタブノキが一番見事です。周辺のビル郡の中にあって艶やかな濃い緑の塊は、異彩を放って堂々としています。緑の砦となって私達を守ってくれているようです。
平成18年5月撮影


同じような方角から撮ってみようと挑戦したのですけど、ちょっと右寄りでしたねぇ  f(^_^;)
それに高さが違う!
どうやら富士塚の上からのような気がする。 ←羨ましいらしい (笑

神社仏閣≪稲荷山蓮華院觀音寺≫

2019年05月20日 | 御朱印と神社仏閣


○真言宗豊山派 稲荷山蓮華院觀音寺
 東京都足立区綾瀬4-9-6
 
 荒川辺八十八ヶ所霊場五十一番札所
 荒綾八十八ヶ所霊場七十番札所

 駐車場 5台ほど有り



 
左、門に向かって右に広い駐車場。  右、この門は開いてませんでした。



稲荷山 蓮花院觀音寺(いなりさん れんげいんかんのんじ)
 真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で一七世紀初頭に創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺として地域とともに歩んできたのち慶応四年(一八六八)三月んは江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山(千葉県)に撤退したというエピソードを持つ。
 開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓としえ足立区登録有形文化財となっている。
 本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八か所五十一番、荒綾八十八か所の七十番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地であった。ほかにも境内に寛文四年(一六六四)の聖観音立像庚申塔があり足立区登録有形民俗文化財となっている。
     平成八年三月    足立区教育委員会




 


 
聖観音立像庚申塔
 庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
 庚申とは、十千の庚と十二支の申とが結び付いた六十日に一回巡ってくる日や年のことを指す。
 庚申の日には、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様であり、文字塔の他、「青面金剛」、「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
 聖観音は正式には聖観世音菩薩といい、すべての観音のみなもととして、古くから深く信仰されている。像型は光背型で、像の左右に「寛文四(一六六四)甲辰極月十五日」・「奉造立庚申供養二世安穏所也」、下部に施主名がある。区内江戸期の庚申塔の初期のものにあたるが、様相の整った極めて見事な刻像である。
 昭和六十二年十一月、足立区有形民俗文化財に登録された。
     平成七年三月      東京都足立区教育委員会



 


 

神社仏閣≪綾瀬神社≫

2019年05月20日 | 御朱印と神社仏閣


○綾瀬神社
 東京都足立区綾瀬1-34-26

 1971(昭和46)年に氷川神社へ胡録神社を合祀のうえ改築が計画され現在に至る。

 御朱印 無し


 


 


 
左、稲荷社。 右、三峰社。


 
左の稲荷社の横にお狐様の絵馬が掛かってました。


 
足立区指定第86号 保存樹木 いちょう
 綾瀬神社の御神木。この銀杏は氏神さまの象徴として古くから親しまれています。毎年元旦祭の神事では、依代となり地域を見守ります。秋になると沢山の実をつけ、氏子の人たちを楽しませてくれます。(平成18年11月撮影)