鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山升田口

2022年06月26日 | 鳥海山

 昭和36年の鳥海山案内地図、これには二つの升田口が記載されています。一つは鶴間池までのハイキングコース。もう一つが鶴間池から外輪山に至る道です。すなわち清吉新道の紹介です。この案内の発行が昭和36年、新道は昭和32年ですからまだできて間もないころです。現在WEB上を検索してみても清吉新道への挑戦記録は数例しか出てきません。しかも道の荒廃で途中までです。

 升田口として次のように紹介されています。もちろん鳥海高原ラインなどという、山を削り、土砂を谷へ投げ捨てて作った道路はまだありません。


 「このコ—スは昭和三十二年、  酒田山岳会の斉藤清吉氏の努力で開かれた新道で、今のところ鶴間池から上部は道標もなく、 困難なころが多いので、余程山なれた人にしかすすめられない。登るには確実なガィドが必要である。
 升田から日向川上流に沿う大道を五杆余北上し、大道から左に入るところにある鶴間池入口の道標にしたがって小径をいくと鹿俣川急流の吊橋にでる。吊橋を渡って斜面をからみ、約四〇分はどで発電所取入ロがあり、そばに無人の見張小屋がある。ここから撫林の中を登り一時間余で鶴間池につく。池畔には八幡山岳会が建てた山小屋鶴間池山荘がある。鶴間池はうっそうたる撫林の中にあって、外輪山を頂部とする円錐型の山容を湖 面にうつしているのは絶景である。
 ここから東南の山道に入り、崖道をくだって鹿俣川上流を横切り 、対岸の細道をみつけて東の山道を登り、鹿俣川源流の断崖を左にみて直登し外輪山行者岳手前にでる。これは前述した とおり、要ガィドの難路である。 」


 知人は清吉新道の途中からほぼ等高線沿いに河原宿上部に至る横道と言われる道も歩いたということでしたが、この横道は地図上では等高線沿いとは言いながら沢のアップダウン、巨岩もゴロゴロのかなりの難路だそうです。googleマップで見ても清吉新道も横道も既に踏み跡としてもそれらしきものを発見することはできません。

 昭文社「山と高原地図 鳥海山1976年」からですが、(迷いやすい)と書いてあるのが横道と言われるものです。ちょうど大雪路おおゆきじの手前に出るようです。自分ではとてもこういった道には挑戦できませんので文献上、あるいはかつて歩いた人の話を記録するのがせいぜい出来ることです。

 こちらの方がわかりやすいでしょうか。同じ地図の裏面です。

 ビヤ沢ビヤソ雪渓の下、無名滝から西方へ横道と記載があります。ついでに、鶴間池まで行くと見えるマタフリの滝が鶴間池の源流のように見えますがご覧の通りマタフリの滝は鶴間池ではなく鹿俣沢へ注がれています。鶴間池の源流は上の地図㉟ノあたりの崖から湧水として流れ落ちるふたつの滝です。それが池沢として鶴間池へ流れ又池沢として鶴間池から流れ出ていきます。去年ガイドのAさんに連れられて途中まで行ったのですが深い藪と悪天候、時間で途中から戻ってきました。その時鶴間池の生成についても伺ったのですがとても興味深いものでした。あの鶴間池一帯がお椀状に崩壊してできた地形だったとは。鶴間池へ下道から入っていくと途中に断層らしきものも見られますし地形を見ながら歩くのも楽しいものです。

 ※清吉新道にある「食物園」変な名前ですが清吉さんの「山男のひとりごと」によればそこは高山から低山性の植物まで入り乱れているので「世界植物園だな」、といったところから「植物園」、それがいつのまにか「食物園」になったのではないかと思われます。

 

 ※後日かつての酒田東高山岳部員から聞いた話では、植物園はちょ休憩でおやつを食べるにちょうどいい場所なところから食物園と呼ばれるようになったとのことです。


鳥海山小砂川口

2022年06月25日 | 鳥海山

 昭和36年の鳥海山案内地図には行程図がついています。

 ブルーラインもなんたらラインも便利な車の道路は何もない、本当に足で登る時代の行程図です。

 記念スタンプは40年、裏面の地図には吹浦駅の印が押してありましたので吹浦駅に置いてあったものかもしれません。値段も書いていないのでもしかすると無料で配布されていたものなのかもしれません。発行は山形県観光協会・秋田県観光連盟となっています。最近のパンフレットよりもだいぶ中身が濃いです。

 現在いろいろな旧道を歩こうと思ってもすでに廃道となった道が数多くあります。吹浦からの登拝道などはあれだけ由緒ある道なのに、今や吹浦~大平間はブルーライン上に名前はあるものの登山道は跡形もありません。斎藤重一さんもその著書「鳥海山」の中で猿倉道を例にとって「鳥海山のほかの登山道でもいえることであるが、登山の利便を考えて車道をより頂上ちかくにまで上らせるとき、既存の登山道をすべて潰してしまうのである。登山道の上を車道が走り、くりかえし登山道と車道が交錯して、ふるい歩道としての登山道は消されていく。猿倉道も、四合目熊ノ森から下は、いまではアスファルトの路面を歩くしかない。」と述べています。

 

 さて、いまでは登山案内に載ることもないし、聞くこともない道、地元のかたなら知っているかもしれませんが小砂川口、観音森から猿穴を経由しての登山道がありました。この案内での説明によれば、

「このコ—スは途中観音森や猿穴等の勝地もあり、飲料水も豊富であるが、これぞという特徴のないせいか現在は登る人の少 い登山道である。 観音森は特徴のあるドーム型のおだやかな山容をなしており 登山道は観音森の裾を右寄りに登る。途中二道のわかれ道は右 が旧噴火口猿穴へ至るもの、左が登山道である。まもなく小さ い流れを越えたのち登りとなり、水場のあるところで川袋から の登路と合する。しばらく登って雪溪になり 草原にでれば用水路が原の中央を貫いており、これに沿って登ると象潟ロと合う。このあたり幕営の適地である。」
(もちろん現在鳥海国定公園内は幕営禁止です。)

 

昭和42年の「あきた」という雑誌にも小砂川口は紹介されています。


〔小砂川口〕

 小砂川駅下車、すぐ国道を南へ七百メートルほど歩くと左側に登山口がある。
 なだらかな山容をみせる観音森の裾を右寄りに登る。途中旧噴火口猿穴への道を右に分けて左の登山道をいくとまもなく小さい流れを越えて急坂となる。
 なおも登ると雪渓になり、草原にでれば用水路が中央を貫いており、これに沿って登ってゆけば象潟口に合流することになる。


 用水路は賽の河原の小砂川堰の事でしょう。先日も用水路を訪ね歩く山歩きをしましたが昔の人の仕事は大したものです。それらの用水路を開鑿することによって今の田畑があるのですから。

 

 


昭和38年の鳥海山案内地図より

2022年06月22日 | 鳥海山

 昭和38年の鳥海山案内地図には興味深い記述が沢山ありましたので何回かに分けて紹介していきます。

 最初に目についたのが当時の山小屋です。

 大平小屋では食事も出していたようです。又、蕨岡口には遊佐町で運営するソブ谷地小屋があり、食事も出していたことがわかります。1976年の山と高原地図では既に小屋はなくなっています。又蕨岡口もこのころには鉱石を採取するための嶽ノ腰林道を奥まで行ったソブ谷地から横堂へ直登する道が蕨岡の人によって開かれ、水呑を経由する登拝道もこの頃には使われなくなっていたことがわかります。嶽ノ腰林道については「遊佐町の鳳来山付近には鉱泉沈澱型褐鉄鉱鉱床があり、明治38年頃から昭和20年まで断続的に採鉱が行われ、昭和34-35年にも嶽ノ腰鉱山として約1,000トンの鉱石が出荷されたことがある」との記録があります。

 ソブというのはこの案内の「蕨岡口」に簡単に説明してあります。谷地というのはおわかりでしょうから説明は省略します。

 「このコースは古くから吹浦口とともに信仰登山で栄えた登山道であり、 蕨岡には昔三十三の僧坊があった。
 酒田始発の定期バスは蕨岡を経て、一時間二〇分の後、 終点杉沢部落につく。  ここから九、 七粁奥のソブ谷地まではジープの通る車道となっているが歩けば三時間の距離である。杉沢からはゆるい登りで途中開拓部落が次々に現われる。 杉沢からはゆるい登りで途中開拓部落が次々に現われる。 二合目駒止を経てソプ谷地につく。鳳来山の西麗で、 ここには遊佐町経営の山小屋があり、 近くの鉱泉を引いて風呂をわかしている。  ソブとは土地の語で赤色を意味し、 附近の土が鮮やかな茶褐色をなしているところからソブ谷地の名が生まれたという。」

 ソブ谷地小屋には風呂もあったのですね。ついで面白いのは御浜、御室、横堂が大物忌神社で経営する小屋として挙げられていることです。先輩のNさんは横堂に宿泊したこともあるそうです。横堂の宿泊可能人数は20人となっています。今現在、横堂の跡地に立ってみるとその人数が宿泊できるスペースがあったのかと思ってしまいます。料金を見ると今とは逆で町営小屋より神社で経営する小屋の方が安くなっています。

 河原宿小屋についてはこの当時は大物忌神社ではなく、蕨岡共栄社の経営となっています。共栄社というのは、修験道廃止令にともない、学頭寺であった龍頭寺を除く旧坊宿の人々すべてが神道に改宗しましたが、その後の彼らの自分たちの権益を守るために作った組織であり、鳥海山への参拝者や大物忌神社への参詣者のための便宜を計るものだったということです。(大物忌神社発行 鳥海山-自然・歴史・文化- による)

 (河原宿でまだ幕営できたころ。この影響により河原宿の周辺は荒れ地となりました。)

 蕨岡三十三坊を継ぐことが出来たのは長男のみであり、次男以下は蕨岡に残る場合は門前衆として商売を行い暮らしていたということです。のちに彼らは共栄社に対抗して隆盛会という組織を作ったということです。この組織を作るときは共栄社には秘密で、その集会は夜ひそかに行われたということです。又、彼ら門前衆から見ると、旧坊宿の人は毎日囲碁を打って暮らしていたようだ、と表現される生活だったということです。(前掲同書による)

 

 矢島口では祓川ヒュッテはよく登場しますが、祓川山の家は初めて知りました。祓川神社については村上浅吉さんについて書かれた本も出ています。

 (建て直す前の祓川ヒュッテ)

 象潟口せきれい山荘は今の鉾立山荘の前身ということになるでしょうか。鉾立山荘より下の方にありました。

 升田口取入小屋については1976年時点で山と高原地図には載っていました。

 そのほかまだまだ面白い話はありますが以下次回。


Geographicaで山行を記録する

2022年06月20日 | 鳥海山

 Geographicaというフリーソフトがあります。使い方になれるまで大変ですがやってみると大変面白いです。鶴間池へ行ったときに一度使ってみたのですが久しぶりに使用。YAMAPという有料ソフトも便利なのですがスマホ上にお知らせが頻繁過ぎてうるさく、試用段階で捨てました。

 Geographicaで記録したルートはGPX Playerで振り返り、余分なところはGPX Editorで切取り・編集することが出来ます。ただしGPX Editorは現在公開停止となっているようですのでどうしても使ってみたい方はここで。いつまでダウンロードできるかは不明ですが今日現在では可能でした。

 以前も使ったことはあるのですが先日また使ってみました。操作は慣れるまで大変ですがGPX Playerで記録を見ると時間まで記録されています。またGPX Playerでは色々な角度から歩いた記録を見ることが出来ます。

 鉾立から御浜、長坂出会い経由で下山。やや斜め上空から見ます。

 同じルートを真上から見ます。

 動画を見ているとGPSですから休んだ時間も何時でどこへ到着したのかもすべてわかります。記録として、次回の山行の参考にと色んな使い方ができそうです。ちなみにこの記録でそのスマホのバッテリーの状態でだいぶ違うでしょうけれどバッテリーは100%から40%まで減りました。モバイルバッテリーは必携です。


鉾立から御浜へ

2022年06月19日 | 鳥海山

 鳥海山を歩いていると岩が気になります。はじめて七高山に行った時もその様相の鳥海山の他の場所の岩と全く異なることに驚いたものです。この鉾立から御浜まではすべて鳥の海熔岩(ステージⅡb 10~9万年前)の上を歩くことになります。10~9万年前の熔岩に触れながら歩くことが出来るというのは楽しいし素晴らしいことではないでしょうか。

 こんな岩から始まってさらに大きな岩まで登り始めから登山道の左手には巨岩が立ち並びます。でも、なんで崖っぷちに多く露出しているのでしょう。そのうち詳しい人に訊いてみましょう。(熔岩はステージⅠ、Ⅱ、Ⅲとあり、その順番が生成の古い順となります。)

 今は木道も整備されています。この溝付きの木材、無垢板ですが材質は、値段は?運賃、施工費は?などと考えてしまいます。この象潟口が一番整備されて一番楽なコースでしょう。とはいってもまだまだ雪渓はあります。雪渓の方が自分の歩幅で歩くことが出来るからいい、という人もいるようですけれど延々と続く雪渓を歩くのはあまり好きではないです。雪渓は足跡をトレースしても午後ともなれば雪が腐り思わぬところでスリップしてしまうことを注意する必要があります。かつて新山山頂からの帰り道でやらかしましたから。

 やがて雲も消え、御浜の小屋とトイレが見えてきます。(オークションで600円で落札した300mmの望遠レンズ、カビありだったのを分解してきれいにしました。遊ぶのには十分です。)

 花は白山一華、深山金梅、稚児車、岩黄櫨、裏白瓔珞といろいろ咲いています。

 鍋森山、などという人もいますが森というのは山の事ですので鍋森、が昔からの呼び名です。登ってみたいけど今はそこまでの元気はないです。

 雪渓の左の方、なぜか円くすっぽりと抜け落ちています。

 何か所かこういう円く抜け落ちたところがあります。なぜでしょうか。

 白根葵が各所できれいに咲いています。夕刻になると午前中より元気がいいようです。

 白花もあります。紫にくらべて少し元気がないように見えます。この白根葵の大きな花弁に見えるものは実は萼です。

 帰りは山全体がくっきりと見えるようになりました。 

 東雲荘の前まで来ると斎藤さんが「寄ってけ~」と今も呼び掛けてくるような気がします。東雲荘の看板も吊り下げ式から左右の柱に固定になっています。

 今度は久しぶりに河原宿まで行ってみましょう。滝の小屋の出た所の雪渓は迂回して旧道を登下降した方が安全ですよ。