鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

家路

2021年02月20日 | 鳥海山

 今日は雨と暴風。窓にたたきつけられる雨の音、入り口の格子戸を揺すぶる風の音、春が近いということでしょうか。今年の鳥海山はどんなものでしょう。やはり山は人気(にん気、じゃなくひと気)のないのが一番いいですね。観光だ地域おこしだと騒がれる山は嫌です。百名山を語る人は一切知り合いにはいませんし、知り合いになりたくもありません。

 落日を見ることのできる鉾立口はいいですね。御来光よりも何故か落日の方が好きです。

 それはお前が早起きできないからだと言われればそれまでなのですが。


秋風五丈原

2021年02月17日 | 兎糞録

 最近夜寝る前にゴロゴロしながら(いつもゴロゴロしているけれど)読み続けているのがこれ。

 初めて三国志を読んだのが小学校の時、吉川英治の偽三国志、劉備が庭で蓆を織っている挿絵なんかがあり、桃畑で宴会している挿絵があるやつ。今思えば劉備本人が蓆織っているわけがない。躬耕という言葉を自ら畑で耕す、と考え違いしている人は多いです。古の中国で実際に耕すのは農民、田地を所有して人に耕させ、官の仕事につかないのが躬耕ということです。決して自ら農作業をするわけではないのです。そこのところお間違えの無いように。だから劉備も官職についていない地方の豪族のようなものなのです。決して農民ではない。

 この岩波三国志、オークションでたしか千円ぐらいで手に入れました。その前は岩波文新旧版二度買いました。その手前にあるのは高島俊男さんの「三国志きらめく群像」。これは最高に面白いですよ。三国志読んでなんで劉備に魅力があるのかわからない、劉備よりも曹操の方に魅力を感じますよね。なぜ諸葛孔明は何度も戦いに出ていくのか。しかも直接魏の都目指さないのか。今でいえば諸葛孔明は大卒のお兄さんが一流企業の「魏」に就職できずに仕方なく同業の三番手の「蜀」に就職したようなもの、なんて面白いですね。まだ手に入りますので是非一度読んでみてください。

 


ライチのような香りの焼酎

2021年02月16日 | 兎糞録

 あー疲れた。アルバイトに来てくれとラインで招集されほんのちょこっとばかり働いてきましたが怠け者にはキクーッ。MAKER'S MARKを買おうと帰りに酒屋を覗いたら面白そうな焼酎があったのでそちらを購入してきました。「瑞々しいライチを想わせる甘い香り」などと書いてあると試してみないわけにはいきません。

 コピーにつられるなんてミーハーですな。でもライチが好きなものですから。

 グラスに氷を入れてトクトクトクッと上から注ぐとふわっと甘い香りが立ちのぼってきます。芋臭さはありません。気持ちよくロックで三杯いただいてあとは明日のお楽しみ。

 DAIYAME だいやめと書いてあります。どういう意味かと思ったら「晩酌して疲れを癒す」という意味を表す鹿児島の方言だそうです。(「ダレ(疲れ)」を「ヤメ」=”止める”という意味だそうです。)この辺の言葉で言ったら何になるでしょうか。

 でかでかと宣伝してありましたからお先棒を担ぎましょう。

 https://www.hamadasyuzou.co.jp/daiyame_brand

 お山の話は今日もお休みです。


古のかほり 写真で見る昔の酒田

2021年02月12日 | 兎糞録

 うちにも古い写真がありましたがほとんど人物写真。前にも言いましたが昔は風景などというものは絵葉書にするためにしか撮らなかったようなので明治・大正・昭和の風景はほぼ絵葉書に頼るしかありません。然しながらそれも地元ではどこで見ることができるのか不明ですし、展示しているところもありません。ところが地元ではないですが、絵葉書資料館というものがありまして、そこで全国の古い絵葉書を閲覧、購入できます。

 ただ残念なことに、裏面の写真だけの復刻なので表の宛名面までは再現されていません。表の宛名面こそがおおよその年代推定できる鍵なのですが。そういっても仕方がありませんので写真から年代を推定していくこととなります。それではゆっくりと楽しんでいくことといたしましょう。

 帆掛け船が見えますが、私が小学校に入る前のころ最上川の夕方は帰ってくる帆掛け船が何艘も見られました。これはそれよりもずっと昔の写真ですが、帆掛け船は結構長い間活躍していたようです。何を運んでいたのかどこまで航行していたのか、そういった資料は今のところ見つかりません。

 港の左に黒く出っ張っているのは防波堤、その先端には灯台がありました。北、地図では上側が白灯台、下が赤灯台です。現在は防波堤もはるかに延長になり港の様子もかなり変わっています。北突堤(と呼んでいました)は釣りには絶好の場所でした。北突堤の付け根は昭和初期は砂浜で内海(うちうみ)といい海水浴場になっていました。その写真もどこかで見たことがあります。その反対北側は外海と呼ばれていました。こちらは波打ち際から二三歩行くと急に深くなる休深(きゅうぶか)と言って危ないところでした。父親は内陸の生まれなのですが、小学校のころ遠足で内海に来てそこの砂を牛乳瓶に入れて持ち帰ったそうです。

 たぶん明治期でしょうか。電信柱が秋田の竿灯のようですね。昔職場で電信柱のことをデンキンバシラという人がいたのですが、母親に聞いたところ昔は確かにデンキンバシラと呼んでいたということです。母親が生きているうち、認知症になる前にもっと聞いて記録しておけばよかったと思います。新町の遊郭のあたりに詳しかったですから。

 これもいつ頃のものでしょうか。古い商店街の写真を見ると現在の商店街よりはるかに活気があるように見えます。

 中町通りとあります。やはり人出は多いですね。

 日和山公園の入り口。土塁のようなものは今も変わりません。中央にあるのは割烹小幡の洋館、その奥にある煉瓦造りの洋館はすでにありません。案外最近まであったのですが誰にも興味を持たれずになくなってしまいました。割烹小幡は現在保存に向けて改修中です。改修終わってもまだ「映画おくりびと」なんて遺物で食っていくのつもりなのでしょうか。「おしん」「おくりびと」は作話ですから。歴史的記録では全くありません。

 現在の様子です。

 次の二枚はうちにあった古い写真です。

 かなり古い写真です。日和山公園の展望台、四阿です。四阿は何代にわたってか立て替えられ現在に至っています。

 これは今の消防本署のあたりから見た本町通り。

 ついでにもう一枚、

 これはおそらく昭和四十年代です。真ん中あたり見える映画の看板、縦長で四軒の映画館の上映している映画が宣伝されています。このころは映画も三本立てでしたし、途中入場も大丈夫。朝から晩までいてもよかったのです、途中入れ替えはなかったですから。映画の途中から見て他の映画も見る、そして途中から見た映画を見たところまで見たら帰る、なんてこともしていましたから。

 それにしてもこのころは映画館が四軒もあったんですね。人口十万足らずの街に。今は一軒もありません。右隅に見える焼き鳥長兵衛も最近までありましたね。

 

 こういった資料が大量に保管してあり、常設でいつでも閲覧できるところがあればいいのですが。誰も興味は持たないのでしょうか。