鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

古のかほり 写真で見る昔の酒田

2021年02月12日 | 兎糞録

 うちにも古い写真がありましたがほとんど人物写真。前にも言いましたが昔は風景などというものは絵葉書にするためにしか撮らなかったようなので明治・大正・昭和の風景はほぼ絵葉書に頼るしかありません。然しながらそれも地元ではどこで見ることができるのか不明ですし、展示しているところもありません。ところが地元ではないですが、絵葉書資料館というものがありまして、そこで全国の古い絵葉書を閲覧、購入できます。

 ただ残念なことに、裏面の写真だけの復刻なので表の宛名面までは再現されていません。表の宛名面こそがおおよその年代推定できる鍵なのですが。そういっても仕方がありませんので写真から年代を推定していくこととなります。それではゆっくりと楽しんでいくことといたしましょう。

 帆掛け船が見えますが、私が小学校に入る前のころ最上川の夕方は帰ってくる帆掛け船が何艘も見られました。これはそれよりもずっと昔の写真ですが、帆掛け船は結構長い間活躍していたようです。何を運んでいたのかどこまで航行していたのか、そういった資料は今のところ見つかりません。

 港の左に黒く出っ張っているのは防波堤、その先端には灯台がありました。北、地図では上側が白灯台、下が赤灯台です。現在は防波堤もはるかに延長になり港の様子もかなり変わっています。北突堤(と呼んでいました)は釣りには絶好の場所でした。北突堤の付け根は昭和初期は砂浜で内海(うちうみ)といい海水浴場になっていました。その写真もどこかで見たことがあります。その反対北側は外海と呼ばれていました。こちらは波打ち際から二三歩行くと急に深くなる休深(きゅうぶか)と言って危ないところでした。父親は内陸の生まれなのですが、小学校のころ遠足で内海に来てそこの砂を牛乳瓶に入れて持ち帰ったそうです。

 たぶん明治期でしょうか。電信柱が秋田の竿灯のようですね。昔職場で電信柱のことをデンキンバシラという人がいたのですが、母親に聞いたところ昔は確かにデンキンバシラと呼んでいたということです。母親が生きているうち、認知症になる前にもっと聞いて記録しておけばよかったと思います。新町の遊郭のあたりに詳しかったですから。

 これもいつ頃のものでしょうか。古い商店街の写真を見ると現在の商店街よりはるかに活気があるように見えます。

 中町通りとあります。やはり人出は多いですね。

 日和山公園の入り口。土塁のようなものは今も変わりません。中央にあるのは割烹小幡の洋館、その奥にある煉瓦造りの洋館はすでにありません。案外最近まであったのですが誰にも興味を持たれずになくなってしまいました。割烹小幡は現在保存に向けて改修中です。改修終わってもまだ「映画おくりびと」なんて遺物で食っていくのつもりなのでしょうか。「おしん」「おくりびと」は作話ですから。歴史的記録では全くありません。

 現在の様子です。

 次の二枚はうちにあった古い写真です。

 かなり古い写真です。日和山公園の展望台、四阿です。四阿は何代にわたってか立て替えられ現在に至っています。

 これは今の消防本署のあたりから見た本町通り。

 ついでにもう一枚、

 これはおそらく昭和四十年代です。真ん中あたり見える映画の看板、縦長で四軒の映画館の上映している映画が宣伝されています。このころは映画も三本立てでしたし、途中入場も大丈夫。朝から晩までいてもよかったのです、途中入れ替えはなかったですから。映画の途中から見て他の映画も見る、そして途中から見た映画を見たところまで見たら帰る、なんてこともしていましたから。

 それにしてもこのころは映画館が四軒もあったんですね。人口十万足らずの街に。今は一軒もありません。右隅に見える焼き鳥長兵衛も最近までありましたね。

 

 こういった資料が大量に保管してあり、常設でいつでも閲覧できるところがあればいいのですが。誰も興味は持たないのでしょうか。


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