鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

河原宿小屋の変遷

2021年02月07日 | 鳥海山

 『箸の王子より籠山の下迄木立壱里と号す、かご山鼓ミ石を越へて八丁坂是レ迄又壱里と称す、八丁坂茶屋あれとも人ハ居らず蕨岡より是レ迄六里とす、八丁坂より河原宿ク迄壱里、河原宿ハ少ク平かにて水流るさいの川原も有りぬ、』

 寛政二年の高山彦九郎「北行日記」の一節ですが河原宿の様子が目に浮かんできます。

 画像として最も古いと思われるのは以前にも掲載しましたが中村不折のスケッチです。明治期のものです。

 その実際の写真がこれも再掲になりますが次のものです。上の葉書も下の葉書も明治33年から明治39年の間に作成されたものです。

 その後下の写真の小屋が建てられたようですが、いつ頃のものかは近いうちに以前河原宿小屋を管理していた蕨岡の般若坊さんに訊いてみたいと思います。

 葉書宛名面の1/2に通信分を書く事が出来、しかも上に"きかは便郵"と濁点なしで書いてあるのは大正7年から昭和7年の間に作成されたはがきですので上の葉書もその間のものということになります。

 この写真も再掲ですが同じ小屋のように見えます。宛名面は前の葉書と同じく通信欄1/2、"きかは便郵"となっています。大正8年か昭和8年かは不明ですがそのどちらかの日付のスタンプが押されています。

 昭和52年に建てられた現在廃墟となっている河原宿小屋、平成初め頃の写真だと思います。小屋の手前にちょっと出っ張っているのは山小屋、本当は参篭所ですが、そこで生活する人のための風呂場です。水はふんだんにありますからね。この風呂につかって夕方の鳥海山を眺めるのは最高でした。

 こんな歴史ある場所の由緒ある小屋が廃墟と化し、再建されることもないのは全く持って惜しいことだと思います。ジオパークなどと言って実際は観光がメインでその審査、認定にいったいいくらお金が使われているかもわからないものよりも、いくら神社の財産であったとしてもこういう伝統あるものを保全、保護する方がいいと思うのですけれどネ。

 2020年夏の姿ですがこの冬を越したときはどうなっているでしょう。そうそう、大雨の時は石垣のあたりまで増水するんだそうです。

 


立体写真

2021年02月07日 | 鳥海山

 また古い写真が出てきました。なぜかプリントされたものしかありません。これも前回のパノラマ写真と同じ頃のカメラの機能だったか、たしか"立体写真用レンズ付きフィルム"というものではなかったかと思うのですが。

 立体写真を見るためには平行法と交差法がありますがいずれも慣れないとなかなか見づらいです。真ん中に葉書でも置いて遠くを見るようにすると立体化して見えてくるでしょう。ジーッと見ていると画面中央におでんらしきものの入った鍋が浮かんで見えます。

 写真は東雲荘での山から下りてきてからの宴会です。山へは半分酒を楽しみに登っていったようなもので山中でも下山しても酒の姿はいつもありました。もちろんご馳走は手作りです。

 東雲荘の斎藤さんもあきれたような顔で見ています。

 

 もっといっぱいあるかと思ったのですが三枚しか出てきませんでした。パノラマ写真と同様にもう一度この機能を使うということはなかったようです。


鳥海山をめぐる人々 Tっぁん

2021年02月03日 | 鳥海山
 地元からいつのまにか姿を消したTっぁん。なぜか昔から誰も呼び捨てにはもちろんしないし、TさんでもTちゃんでもない、呼ぶときはTっぁん。東雲荘に最初に連れて行ってくれたのもTっぁん、奥山林道を通って大清水から百宅口を初めて登ったのもTっぁんと一緒でした。2月にかんじき履いて一緒に登って酒飲んだのもTっぁん。

 ある時山を下りてから町内の焼き鳥屋へ飲みに行きました。
  Tっぁんの自宅から近い行きつけの店です。山の話に弾み酒も進みます。焼き鳥の煙とかおりに体がほかほかしてきたころ
 
 「も一軒飲み行ご!!」
 
 Tっぁんカウンター越しに焼鳥屋の母ちゃんに向かい、勘定してくれというのかと思いきや、おもむろに

 「これから〇☆△※と飲みに行くがら金貸してくれ。」

 母ちゃん
 「二万円もあればいいが」とおもむろに財布から取り出しTっぁんに渡します。

 Tっぁん
「ありがど、したば今日の分はつけ。」
 
 こちらが払おうとしてもいい、いいの一点張り。
 
 それからどこへ行ったのかは記憶にありませんが、カラオケでTっぁんが大声で歌ったのは記憶にあります、それもけた外れの気持ちのいいほどの音程外れ。「す~ごい男がいたもんだ~」って歌だったのもはっきり覚えています。

 いつのまにか姿を見なくなったと思ったら、奥さんを亡くし、職場も辞めたという話で地元から姿を消してしまいました。


 それから数年後、街でばったりTっぁんに会ったのです。
 聞けば県内のある山小屋で管理人をしているとのこと。
 詳しくは聞かずに別れました。


 つい最近、Tっぁんと同じ職場にいた人と「ゆりんこ」(温泉)で一緒になり彼の話が出ました。
 今も元気で山小屋の管理人をしているそうです。なんでもオーナーの自宅に住み込んでいるとか。何よりも無事をきいて安心しました。



珈琲共和国

2021年02月02日 | 兎糞録

 前回「若者たち」のなかで「ぽえむ」という喫茶店の話を書きましたがその続きです。「珈琲共和国」というのは当時「ぽえむ」で出していた月刊の情報誌です。コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」とうたっています。手元にはコクヨのB5ファイルで二冊あったのですが現在あるのは珈琲共和国(2)と背に書かれた一冊だけです。1976年1月1日発行のNo.49から1978年3月1日発行のNo.49までと発行日付の書いていないNo.83が一部です。

 こんなものには興味がない人がほとんどでしょうけれど、自分にとっては切り離せない70年代の思い出での一つです。

 社長が山内さんという名で分かるように土佐の方です。毎号珈琲について熱く語っています。この方には別に著書も何冊かありますがそちらも大変面白い本です。中でも記憶に残っているのは山内さんが珈琲店を開店してみた経験として、「オープン客は蹴っ飛ばせ」というのがなるほどでしたね。新規に店をオープンすると、それまでよその店では相手にされなくなった人が親切ごかしていろいろと言ってすり寄ってくる、というのです。そうですよね、どこでも相手にされなくなった人は新しい獲物を求めて別のお店へ行くんです。そういうお客の親切めいた言葉を真に受けて付き合うと本当にいいお客はお店に寄り付かなくなります。

 毎号永島慎二さんがカットを書いて一文載せていました。永島慎二さんは阿佐ヶ谷に住んでいました。「若者たち」に登場する漫画家は永島慎二さんがモデルです。

 No.83の最終面を見ると加盟店の年末・年始の休業のお知らせが載っていますがこの当時「ぽえむ」は何と58店舗ありました。社長の山内さんが亡くなると当時の勢いも影をひそめてしまいました。