鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

正岡子規と鳥海山、中村不折

2021年11月26日 | 鳥海山

 正岡子規が芭蕉の足跡をたどり、こちら迄来た時の鳥海山に係わる記述があります。ちょっと長いですが、


奥羽行脚のとき鳥海山の横の方の何とかいふ処であつたが海岸の松原にある一軒家にとまつたことがある 一日熱い路を歩いて来たのでからだはくたびれきつて居るこの松原へ来たときには鳥海山の頂に僅に夕日が残つて居る時分だからとても次の駅まで行く勇気はない 止むを得ずこの怪しい一軒家に飛び込んだ 勿論一軒家といふても旅人宿の看板は掛けてあつたのできたない家ながら二階建になつて居る、しかしここに一軒家があつてそれが旅人宿を営業として居るといふに至つてはどうしても不思議といはざるを得ない 安達ヶ原の鬼のすみかか武蔵野の石の枕でない処が博奕宿と淫売宿と兼ねた処位ではあらうと想像せられた 自分がここへ泊るについて懸念に堪へなかつたのはそんなことではない 食物のことであつた 連日の旅にからだは弱つてゐるし今日は殊に路端へ倒れるほどに疲れて居るのであるから夕飯だけは少しうまい者が食ひたいといふ注文があるのでその注文はとてもこの宿屋でかなへられぬといふことであつた けれどももう一歩も行けぬからそんなことはあきらめるとして泊ることにした 固より門も垣も何もない 家の横に廻つてとめてくださいといふたが客らしい者は居ないやうだから自分もきつとことわられるであらうと思ふた、ところが意外にもあがれといふことであつた 草鞋を解いて街道に臨んだ方の二階の一室を占めた 鳥海山は窓に当つてゐる そこで足投げ出して今日の草臥をいたはりながらつくづくこの家の形勢を見るに別に怪むべきこともない 十三、四の少女と三十位の女と二人居るが極めてきたない風つきでお白粉などはちつともない さうして客は自分一人である、などと考へて居ると膳が来た 驚いた 酢牡蠣がある 椀の蓋を取るとこれも牡蠣だ うまいうまい 非常にうまい 新しい牡蠣だ実に思ひがけない一軒家の御馳走であつた歓迎せられない旅にも這種の興味はある


 「博奕宿と淫売宿と兼ねた処位」とは大変な想像をされたものです。

 明治期の蕨岡の宿坊に泊まった客の
「ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタコトハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ」という感想とは大違い。

 それにしても明治期の文人は若くしてこれだけの文章をものにするのですから大したものです。

 其の正岡子規が「少国民」という新聞を編集するにあたって画家を捜していたところ紹介されたのが当時無名の中村不折でした。中村不折はその後「ほととぎす」に係わっていき、「吾輩は猫である」の挿絵を描きます。其の中村不折も鳥海山を訪れ絵をかいていますが、鳥海山に来たのも正岡子規の影響があったのかもしれません。


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