古隷から八分に移行する過渡期のものだが、
素朴な力強い筆勢の中に奥深い雅かな味合いを見る。
この時期の書の中で、私が一番好きな刻石である。
この時期の篆書と隷書の中間的な書体を「古隷」とも「草篆」とも呼ぶ。
素朴な力強い筆勢の中に奥深い雅かな味合いを見る。
この時期の書の中で、私が一番好きな刻石である。
この時期の篆書と隷書の中間的な書体を「古隷」とも「草篆」とも呼ぶ。
2000年前の女性の屍体の発見で世を震撼せしめた「馬王堆」からは、
多くの副葬品が発掘されたが、
文字の歴史上、極めて貴重なのが帛書と竹簡である。
後年、紙が発明されるまで、
文書や書簡は、
絹に文字を書く帛書や、
竹や木を削った札に書く竹簡、木簡が普通であった
多くの副葬品が発掘されたが、
文字の歴史上、極めて貴重なのが帛書と竹簡である。
後年、紙が発明されるまで、
文書や書簡は、
絹に文字を書く帛書や、
竹や木を削った札に書く竹簡、木簡が普通であった
秦代の竹簡「睡虎地秦簡(雲夢秦簡とも言われる)」
の文字は若干の篆意の残るものの、
明らかに隷書体であり、
小篆が正書体であった秦代に於いても、
行政文書などの実用書には隷書体が用いられていたことが判る。
戦国時代中期の絹に書かれた肉筆書。
前載の竹簡と似通っており、
当時の楚地方で流行した筆法であろう。
近世に入り、長沙、敦煌、楼蘭等で発掘された木簡、竹簡、帛書によって、
我々は、古典の肉筆にこの目で触れることが出来、
古典の運筆、筆勢を観賞することが出来るのだ。
漢代の前後から、
篆書に変わり隷書が、
正書体として一般に広く通用するようになってきた。
隷書の「隷」とは下級役人の意とされる。
王やその一族などに限って扱われてきた書が、
下層に行き渡ってきたのであろう。
秦始皇帝の画期的な統一政策の一環が、
度量衡の統一政策にもみられる。
この政策を推進する為に標準器が作られた。
そして、その標準器の表面には自己の業績を称える詔勅を書き、
その文字には統一したばかりの標準書体である小篆を用いた。
度量衡の統一政策にもみられる。
この政策を推進する為に標準器が作られた。
そして、その標準器の表面には自己の業績を称える詔勅を書き、
その文字には統一したばかりの標準書体である小篆を用いた。