書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

三条院

2010-06-30 08:56:27 | Weblog
心にもあらでうき世ににながらへば恋しかるべき夜半の月かな 

生きておっても詮無いと思うこの世だけど生きていて懐かしく思うのはこんな見事な月ぐらいなのだろうなぁ

三条院(976~1017)
第六十七代天皇。 中宮は藤原道長の次女妍子。 妍子との間に男子に恵まれず、
外舅として政権を掌握したかった道長は天皇の眼病を理由に譲位を迫った。
退位後出家し翌年には失意の内に他界した、享年42歳。
天皇の眼病は殆ど失明に近いものだったと言う。

周防内侍

2010-06-29 08:04:00 | Weblog
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ

本当は貴方の手枕でやすみたいのよ、だけどそんな事をしたらつまらない噂が立ってしまうわ、それが嫌なの

周防内侍(1037年頃? - 1109年頃?)
本名は平仲子。父は周防守平棟仲。母は源正職娘の小馬内侍。女房三十六歌仙の一人。
後冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇の4朝に女官として仕えた。1108年以後、病のため出家した。
人となりは殆ど伝わっていないが、多くの歌合せへの出詠の記録が残っており勅撰入集も多く、
当時を代表する女流歌人だった事をうかがわせる。

大僧正行尊

2010-06-28 08:16:25 | Weblog
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし

山桜よ、お前だけが私の心をわかってくれるのだ

前大僧正行尊(1055~1135)
父は参議源基平。12歳で園城寺に入り出家、17歳で園城寺をでて大峰山・葛城山・熊野など諸国の霊場で18年間修行し、修験者として名を成した。庶民から天皇にいたる加持祈祷の話が多く残り、人々の尊敬を集めた。1123年には天台座主、1125年大僧正、その後、諸寺の別当を歴任した。
老齢にして、白河、鳥羽、待賢門院の高野山行幸に随行している。

また、「金葉和歌集」他の勅撰和歌集に入首、歌集に「行尊大僧正集」があり歌人としても名が高い。



相模

2010-06-27 08:38:02 | Weblog
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそ惜しけれ

あの人はつれなく去っていってしまったのに浮名だけがだんだん広まってきてしまってとっても口惜しいわ 

相模(?~?)
中古三十六歌仙の一人。実父は不詳、母は能登守慶滋保章の娘。継父の摂津源氏・但馬守頼光の養女。
相模守大江公資に嫁ぎ、相模と呼ばれるが後にと離別。その後、歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛が伝わっている。
歌人としての彼女の名声が高く、
和歌六人党と呼ばれる藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長などのリーダー格であったという。 また能因法師・和泉式部・源経信などとも交流があった。
代々の勅撰集に多くの歌が選ばれている。

権中納言定頼

2010-06-26 08:23:55 | Weblog
朝ぼらけ宇治の川ぎり絶えだえにあらはれわたる瀬々の網代木 

夜明け、宇治川に立ちこめた川霧がうすらうすら晴れてきて、だんだんと網代木がその全貌を現してきた    

権中納言定頼(995~1045)
権大納言・藤原公任の長男。官位は正二位・権中納言。四条中納言と称される、後に出家。中古三十六歌仙の一人。
例の小式部内侍をからかって逆にやり込められた逸話の人。
相模や大弐三位などとも関係を持ち、容姿の優れた貴公子だったらしい。
「後拾遺和歌集」などの勅撰和歌集に多く入集、家集の歌集「定頼集」もある。


左京大夫道雅

2010-06-25 08:38:08 | Weblog
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな 

今は貴女のことをきっぱりと諦めました、それを直接貴女に伝えたくてもう一度だけ貴女にお逢いしたいのです

藤原道雅(992年 - 1054年)
中関白藤原道隆の孫で、儀同三司伊周の子。一条天皇皇后定子の甥。
祖父道隆に溺愛されるが、道隆の死去、さらに、父伊周の左遷(長徳の変)と凋落気味の中関白家に育つ。 
三条天皇が鍾愛した皇女・当子内親王と道雅の密通の噂が立ち三条天皇の激昂に触れた道雅は勅勘され、道雅に掛かり合いの有る者は全て追放された。 
内親王は悲しみのうちに自ら落飾し、22歳の若さで生涯を閉じた。
この歌は二人が引き裂かれた後に道雅が内親王贈った別れの歌とされる。
道雅は歌人としては一家を成したが、
その後も花山法皇の皇女殺害に関係したり、敦明親王との喧嘩騒動、博打場での乱行等等、悪行の噂が多く、「荒三位」「悪三位」などと呼ばれた。

清少納言

2010-06-24 09:05:55 | Weblog
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 

鶏の鳴き声で騙そうとしても騙されるものですか、お逢いしませんよ

清少納言(?~?)
清少納言は、清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘。曽祖父(祖父?)は「古今和歌集」の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信(清原致信)・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。
幼少の頃から父に和歌や漢文を学び、若くして才気煥発な才女の名が高く当代一流の女流作家に成長した。一条天皇の皇后定子に仕え、「枕草子」を書く。
陸奥守・橘則光と結婚し、一子則長をもうけるが、やがて離婚。 のちに、摂津守・藤原棟世と再婚し娘小馬命婦をもうけた。
当時著名な文化人、歌人であった藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房等との親交が知られているが、中でも藤原実方とは恋愛関係にあったのではないかと推測されている。
清少納言と紫式部との確執が言われているが、紫式部が中宮彰子に遣えたのは清少納言が中宮定子の元を退いた後のことで、2人は面識は無かったとされる。
後に紫式部は清少納言を痛烈に貶しているが清少納言の反論は無い。
この歌は斉の孟嘗君の故事を引いているが、これも彼女が中国の故事に詳しかった一例であろう。

伊勢大輔

2010-06-23 08:07:52 | Weblog
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな

その昔、奈良の都に咲き誇った桜が今こうして宮中で咲き誇り芳香を漂わしているのです

伊勢大輔(?~?)
父は大中臣輔親、代々歌人の系譜として名高い大中臣家の系譜に連なる。
一条天皇の后の彰子に遣え紫式部や和泉式部とも親しい間柄であったようだ。 
宮中での儀式の際、奈良より届けられた桜の枝を主上に捧げる際に即興でこの歌を詠い和歌の才能を認められたと言う。
後に、筑前守高階成順に嫁ぎ康資王母・筑前乳母・源兼俊母など著名な歌人を生んだ。

小式部内侍

2010-06-22 08:30:46 | Weblog
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立

あの大江山や生野の向こう、母の住んでる天の橋立へは行ったことも無いし、母からの手紙さえも貰ったことも無いのよ

小式部内侍(?~1025)
橘道貞と和泉式部の娘。 母と共に中宮彰子に仕えた。
母同様恋多き女流歌人で、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多く貴族男性との恋で知られる。教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。 
この歌は、当時、小式部内侍の歌の余りの見事さに母和泉式部が代作しているのではという噂があり、四条中納言がこれを種にからかった際の返歌とされる、
当意即妙な巧みな返歌に対し四条中納言は狼狽し返歌も出来ず大恥を掻いたという。
20代の若さで死去した。 この際に母の和泉式部が詠んだ悲痛な歌が残っている。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり 和泉式部

赤染衛門

2010-06-21 08:35:15 | Weblog
やすらはでねなまし物をさよ更けてかたぶくまでの月を見しかな

貴方がお出でになると仰るので月が西の山に入るまでお待ちしてたのですよ、それなのにもう・・・
(この歌は赤染衛門が妹の為に代作した?)


赤染衛門(956年頃? - 1041年以後)
赤染時用の娘、実父は平兼盛との説もある。
良妻賢母として知られ、夫である文章博士大江匡衡とはおしどり夫婦と言われていた。
中宮彰子に仕え、和泉式部と並び称された歌人で、和泉式部が情熱的な大胆な歌風なのに対して、赤染衛門は穏やかで典雅な歌風であった。
仲の悪かった紫式部と清少納言の双方と赤染衛門は親しかったと言う。