書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

従二位家隆

2010-07-31 08:31:10 | Weblog
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
      
楢の葉が風にそよいでいる奈良の小川の夕暮れ、六月祓の禊が行われている。
辺りは秋の気配がしているが、やはり、未だ夏なのだなぁ。

藤原 家隆(1158~1237)
権中納言藤原光隆の子。若い頃、寂連の養子となり歌を学び、その後俊成を師とし歌人として定家と並び称された。
「新古今集和歌集」の選者の一人。歌風は平明で幽寂とされる。晩年に出家。
承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇と交流が深く上皇を最後まで続け慰め続けたことで知られる。
歌集に「壬二集」、「千載和歌集」他の勅撰和歌集に281首が採録されいる。
子の藤原隆祐、娘の土御門院(承明門院)小宰相も歌人として知られる。


権中納言定家

2010-07-30 09:12:14 | Weblog
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ     

夕方の松穂の浦で焼かれる海草のように、我が身を恋焦がしがら来ない人を待ち焦がれているのです

権中納言定家(1162~1241)
藤原定家。父は藤原俊成。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。初め藤原季能女と結婚するが離婚し、西園寺実宗女(公経の姉)と再婚。子に因子(民部卿典侍)・為家など。寂蓮は従兄。
14歳で高倉天皇に仕え、正二位権中納言にまですすむ。
若くして歌才を認められ、早くから歌人としての道を究め御子左家を歌道の家としての地位を不動にした。
俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心」を唱えた。
家集に「拾遺愚草」「拾遺愚草員外」。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集には最多入集歌人。勅撰二十一代集に最も多く入集。編著に「定家八代抄(二四代集)」「近代秀歌」「詠歌大概」「八代集秀逸」「毎月抄」など多数。「源氏物語」「土佐日記」などの古典研究にも多大な足跡を残した。 
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記「明月記」と後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した「熊野御幸記」は国宝に指定されている。

入道前大政大臣

2010-07-29 08:48:28 | Weblog
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふり行くものは 我が身なりけり 

嵐のような風に舞う桜の花、まさに雪のような花吹雪だ。 こうしてこの世から消えてゆく桜のさまを観ていると、何か我が身を見ているようなんだなぁ

入道前太政大臣(1171~1244)
藤原公経。承久の乱に際し後鳥羽院の蜂起計画を幕府方に密告するなど鎌倉幕府と強固な絆で結ばれ、
乱終結後には京都政界で絶大な権勢を誇り、太政大臣に至った。
京都北山の西園寺に豪華な山荘持ったことから西園寺と呼ばれた、この山荘が後の金閣寺の下地になっている。
公経の姉は藤原定家の妻であり、定家晩年の社会的・経済的な安定は西園寺家に拠る。
定家は公経の権勢を傘にした振る舞いに批判的であったが公経の歌人としての才は認めていたようで、
定家の撰んだ勅撰集に公経の歌が30首も撰入されて。

前大僧正慈円

2010-07-28 08:54:39 | Weblog
おほけなく うき世の民に おほふかな 我が立つ杣に 墨染めの袖
      
私には身分不相応かもしれないが、この悲しみと苦しみに満ちた世の中の人々の上に黒染の仏法の袖を覆い被せ、この混沌とした世の平和を願うのだ

前大僧正慈円(1155~1225)
父は関白藤原忠通、母は加賀局(藤原仲光の娘)、九条兼実の弟。11歳で比叡山に入り、14歳で出家。
天台座主を4度務める。良経、定家とともに和歌に新風を開いた。
家集に「拾玉集」、「千載和歌集」にも入集、歴史書「愚管抄」を著した。
当時異端視されていた法然の教義を批判する一方で、法然や弟子の親鸞を庇護したことで知られている。

参議雅経

2010-07-27 08:57:39 | Weblog
み吉野の 山の秋風 さよ更けて 故郷寒く 衣うつなり 

吉野山から秋風が吹きおろし次第に夜も更けてきた。 昔、都があったこの辺り、耳を澄ますと里人の打つ砧の音が聞こえてくるのだ、いかにも寒々しいなぁ。 

参議雅経(1170~1221)
藤原雅経。父は刑部卿頼経、母は源顕雅の娘、従三位参議。和歌を俊成に学び、「新古今和歌集」の選者の一人。
蹴鞠の名人で「蹴鞠長者」と称された。 和歌と蹴鞠の家・飛鳥井家の祖である。
父頼経が源義経と親しかった関係で、源頼朝・義経兄弟が対立した際に父は配流され、雅経も連座される。
後に、頼朝に和歌・蹴鞠の才能を高く評価され頼家・実朝とも深い親交を得た。
妻は大江広元の娘。
「蹴鞠略記」を書し、日記に「雅経卿記」、家集に「明日香井集」があり、「新古今和歌集」にも入集。

鎌倉右大臣

2010-07-26 08:16:38 | Weblog
世の中は 常にもがもな なぎさ漕ぐ あまのをぶねの 綱手かなしも

この世の中はいつまでも変わらないでいてほしいものだ。渚にそって漕ぐ漁師の小船が引き綱を引く様子はしみじみと心が惹かれるのだ。
なんと穏やかなのだろう、でも、どこか儚いのだなぁ。    


鎌倉右大臣(1192~1219)
鎌倉右大臣は、源実朝。頼朝の次男。十二歳で征夷大将軍、二十七歳で右大臣。
しかし、鎌倉幕府の実権は北条氏の手にあり、実朝は名前だけの将軍として知られる。
二十八歳の時、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺された。
定家に歌を学び、多くの秀歌を残す。
百人一首中、ただ一人の武将歌人である。
92首が勅撰和歌集に入集、家集として金槐和歌集がある。

二条院讃岐

2010-07-25 08:39:26 | Weblog
我が袖は しほひに見えぬ 沖の石の 人こそしらね かわくまもなし

海の底の石のように誰にも見えないでしょうけれども、私の袖はあの人を思う恋の涙に濡れていて一寸の間も乾かないのです。   

二条院讃岐(1141?~1217?)
源三位頼政の娘。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱、従姉妹に宜秋門院丹後。
後二条天皇に仕えて讃岐と呼ばれたが、天皇の死後、後鳥羽上皇の中宮宜秋門院に仕えた。
式子内親王と並ぶ平安末期の代表的な女流歌人。
「千載集」他の勅撰和歌集に72首入集。家集に「二条院讃岐集」がある。
清和源氏の流れの中で頼朝、実朝に連なる河内源氏に対し頼政を中心とする摂津源氏には歌人が多い。

後京極摂政太政大臣

2010-07-24 09:06:01 | Weblog
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ

こおろぎの鳴いている霜の降る寒い夜です 筵の上に衣を敷いて一人寝をするのです 侘びしいのです
 
後京極摂政前太政大臣(1169~1206)
九条 良経。摂政・関白九条兼実の次男。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号す。
建久七年の政変で一時失脚した後に復帰し、後に土御門天皇の摂政、太政大臣となるが、何者かにより暗殺される。
和歌を俊成と定家に学び、新風和歌を育成する大きな役割を果たした。
「新古今和歌集」の選者で仮名序を書く。
良経は和歌や漢詩に優れたばかりでなく、特に書道においては天才的と言われた。

殷富門院大輔

2010-07-23 08:55:17 | Weblog
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず

貴方を思う恋の苦しみで流す血の涙でこんなに色が変わってしまった私の袖を見て下さいな、毎日毎日波に曝されているあの雄島の漁師の袖でさえ少しも色なんか変わらないのですよ

殷富門院大輔 (?~?)
藤原信成の娘。後白河上皇の皇女である殷富門院亮子仕えた。殷富門院亮子は式子内親王の姉。
定家をはじめ西行、寂蓮、小待従、俊恵、源頼政など当時代の多くの歌人と交流があった。
「千載和歌集」他の勅撰和歌集にも多く入集し、家集には「殷富門院大輔集」がある。
女房三十六歌仙の一人。

式子内親王

2010-07-22 08:17:00 | Weblog
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

私の命よ、絶えるなら絶えてほしいの。このまま生き永らえていると、貴方を思う恋心を胸の内にしまっておくことが出来なくなって、
秘めている思いが世間に知られてしまうのが怖いの。


式子内親王(?~1201)
後白河天皇の第3皇女、母は藤原成子(藤原季成の女)、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。兄以仁王の挙兵と敗死、甥に当たる安徳天皇の壇ノ浦での投身など、源平の盛衰を目の当たりに見た生涯であり、
父後白河法皇の崩御後は不遇の内に没した。式子内親王は絶唱ともいえる恋歌を多く作っているが、
藤原定家との恋愛説があるくらいで、浮いた風説は無く生涯を独身で過ごした。 
藤原俊成を歌道の師とし新三十六歌仙の1人に数えられ、千載集に9首(女性では第3位)、新古今集には49首(女性では第1位)ほか、
多くの勅撰集への入集があり歌人としては非凡であった。