書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

唐招提寺門額(759)

2007-04-30 07:59:14 | Weblog

伝孝謙天皇
力強い筆力を示し、
引き締まった瀟洒な感じを受ける。 
「提」字は王羲之の書法そのものである。 
当時の王羲之への傾倒振りが覗える。

孝謙天皇は聖武天皇、光明皇后の女子の御子である。
お二人の男子の御子が居らず、
聖武天皇の後を継いで天皇となる、女帝である。
橘奈良麻呂、藤原仲麻呂、道鏡、と、
血生臭い政争に関連している。
藤原仲麻呂の乱後、
重祚(一度退位した皇帝が再び皇帝の座につくこと)して、
称徳天皇となる。
称徳天皇は生涯独身で子も兄弟もなく、
父である聖武天皇にも兄弟がなく、
称徳天皇を以って天武天皇の子孫は絶える事になる。

鑑真・書状(754)

2007-04-29 07:42:14 | Weblog

鑑真(688-763)
鑑真54歳の742年の第一回目の渡日決行から748年の第五回目の決行までことごとく失敗、第五回目には激しい暴風にあい、14日間の漂流の末海南島へ漂着する。
この間の辛苦の為、鑑真は失明する。
753年、渡日の決意は変わらず6度目にて悲願を達成し終に日本の土を踏むのである。
想像を超える意志の強さである。
仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命され、
仏教界の風紀を劇的に改善したとされる。
その後、朝廷と意見が分かれ野に下る。
71歳の時、私寺である唐招提寺を開き、
多くの僧侶を育成した、一方で、
社会福祉施設・悲田院を設立し貧民の救済に取り組んだ。

その書にも、鑑真の人柄、人間性が滲み出る。
豊潤かつ雄渾にして気宇雄大である。

道鏡・牒(762)

2007-04-28 08:41:05 | Weblog

道鏡(?-772)
藤原仲麻呂が失脚後、益々孝謙天皇の寵愛を深くし、
天皇の地位を狙う(一部には俗説との説あり)までの高位に上り詰めたが、
孝謙天皇(後の称徳天皇)没後に失脚する。 
しかし、失脚の理由などは不明確で、
天皇後継問題に絡んで歴史から疎外された、との説も有る。
この書の書かれたのは762年とすると、
藤原仲麻呂の変(764年)以前のこととなり、
仲麻呂と孝謙天皇の寵愛を競い合っていた時期の事になり興味深い。
署名の文字からは自己顕示欲の強さが読み取れれる。

恵美押勝・東大寺封戸処分勅書(760)

2007-04-27 08:48:57 | Weblog

恵美押勝(706-764)
光明皇后の甥、旧名藤原仲麻呂である。
橘奈良麻呂の乱を治め政敵を滅ぼすと
皇族以外では初めてと言う太政大臣の位まで上り詰める。 
しかし、光明皇后の死後、孝謙上皇の寵愛は道鏡に向けられ、
終には上皇の激怒を買う事になる。
かくして起こった反孝謙上皇・道鏡のクーデターが恵美押勝の乱(764)である。
次いで記す道鏡の書とを並べ、
当時の政権首脳部の抗争を考え合わせると興味深い。

楽毅論(744)

2007-04-24 09:11:54 | Weblog

光明皇后が王羲之の「楽毅論」を臨書した。
筆跡から、豊かな感受性と旺盛な好奇心の持ち主であった事が覗える。
一方で、男性的ともいえる豪放磊落な書風である。
威厳さも兼ね備え、極めて堅固な精神の持ち主であった事が想像出来る。。 
深い教養と聡明さを以ってして、当時の才色兼備な才女として、
天平文化の中心的な存在で有ったのであろう。

籐三娘の署名は、
皇后と言うより藤原不比等の三女を強く意識していたのであろうか。

賢愚経(740以降)

2007-04-23 06:36:07 | Weblog

伝聖武天皇
荼毘紙と言う極めて稀な料紙に書かれている。
荼毘に附した人骨を漉き込んだという信仰的な伝説から、
この類のものは全て聖武天皇書とされる。 
実際には中国からの帰化人の手になるものと思われている。
古来、古筆家の手鑑の巻頭におされる。

この時代、
国家鎮護仏教の名の下に全国規模で写経が行われた。
奈良前期には比較的細い線の写経が流行したが、
後期に入るとこのような肉太の写経がもてはやされたらしい。

聖武天皇雑集(731)

2007-04-22 09:41:17 | Weblog

中国の六朝、隋、唐の詩文から抜け書きされたもので、
全長21.35mに及ぶ長巻である。
先の詩序同様、中国では既に失われている詩文も有り、
中国文学史上も極めて貴重なものとされる。
それにしても、
後述の光明皇后の豪放とも言える書風に比して、
ご主人であるこの聖武天皇の書は、
いかにも、繊細にして正確、一画一画が几帳面に書かれていることか。
お二人の性格を垣間見るようで微笑ましい。 
しかし、王羲之を丹念に学んだであろう骨格の確かさが覗える。

多胡碑(711)

2007-04-21 06:58:58 | Weblog
山ノ上碑、金井沢碑とともに上野国三碑の一つ。
国の特別史跡である。
書道史上、那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つである。
碑の内容から711年の建碑とされる。
朴訥剛毅な楷書で書かれ、豪放、自由闊達な力が漲っている。
一見、北魏の碑と見紛う。
多胡群建群の官符である。
碑中の羊の字は方角説、人名説などの説があるが、
羊を渡来人の名であるとする説が有力である。
多胡も多くの胡人と想定されている。

詩序(707)

2007-04-20 08:03:14 | Weblog

当時、唐で最も著名な詩人王勃の文集の残巻である。
第8次遣唐使によって持たされたとされる。
当時の知識人、文人たちが挙って王勃の詩を読み詠い書き漁ったのであろう。
仏典以外では日本最古の写本という。
美麗な料紙に書かれた文字は華麗である。
この書風も欧陽詢の流れを汲んでおり、
また、則天文字が随所に見られるのも特徴である。
(則天文字とは則天武后が作った漢字で水戸光圀の圀はその一つの例である。)