趙子謙(1829-1884)
紹興の裕福な家庭に生まれた。
長髪族の乱への遭遇、生家の没落、愛妻の死など、
若くして困苦を経験した。
元来、生来精気旺盛な性格が、
この困苦を逆手に取った如く、
その感情を書画にぶつけたのではないかといわれる。
その辺りが日本人の琴線に触れるのであろうか、
彼に対する日本人の評価は狂的に高い。
八言対聯
40歳の作品。
逆入平出の書法が円熟期に入る頃の書で自信が漲る。
張裕(1823-1894)
字は廉卿。
北碑を信奉し独自の書風を築いた。
宮島詠士が師事しその書風は上条信山に繋がっている。
千字文
張裕から直接に宮島詠士に送られた。
張裕は極めて真摯な人物で、
この書にも少しの衒いもけれんみも見えない。
何紹基(1799-1873)
恵まれた環境に生し、若くして諸学を学んだ。
しかし、進士に合格したのは36歳であった。
幾つかの官職を経て官との意見の相違が元で官職を辞す。
若年より諸国を歴訪し、古碑を尋ね諸国の文士と交流を重ねた。
詩、絵画でも一家を成した。
私は以前から何紹基に惹かれれているが、
その切っ掛けは思い出せない。
岳陽楼に何紹基の対聯を見出し、
懐かしく思ったことがあるのは、
それ以前に何紹基を見知っていた筈である
黄庭堅・山谷題跋中語
何紹基は当初顔真卿に傾倒し、後に北碑、篆隷を極めたと言われる。
彼の作品の随所にそれが現われている。