書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

石如・四体帖(篆)

2006-12-31 07:21:14 | Weblog
石如(1743-1805)
生家は貧しく幼児から薪を採り、百姓をし、餅を売り歩いたと言う。
書刻で生計を立てていたが、
その天稟をして名家に招かれ、食客を転々とし、
その間に、石鼓文から始まる篆書、更に漢隷を深く学び、
遂には是を会得完成し、中国書道の巨星として名を残す事になる。
包世臣に伝授した書の極意とも言うべき言葉が残っている。
「疏なるところは馬をも走らすべし。密なるところは風邪をも透さしめず。
常に白を計りてもって墨に当てつれば、奇趣すなわち出ず。」
奇にてらわず真正面から正統な書に対した強い意志と重厚な性格、
積み重なれられた見識をもってしてたどり着いた境地であろう。

四体帖(1792)
55歳の作。
篆、隷、楷、草、四体で書かれているが、
篆、隷が最も優れていると言われている。


金農・世説新語

2006-12-27 09:50:50 | Weblog

愈々、清に辿り着いた。
明末から清の始めに掛けての中国は、
政治的、社会的、民族的に大混乱を呈した時期であった。
前述の董基昌等は革新的な方向を目指したが、
そんな動きを斜め目に見ていた張瑞図、王鐸、傳山等の文人達は
それぞれに、一風変わった書風に走った。
しかし、中国書道の本流には董基昌がおり、
彼の流れを汲む帖学派が主流を占めた。
この流れに逆らって登場した変り種が金農、鄭燮である。

かくて、19世紀の初頭から中国書道上にかってない変革が訪れる。
阮元、包世臣の説く碑学の登場である。


金農
(1687-1763)
号は冬心。
生涯、官に付かず諸国を遊歴した。
早くから詩文に優れ、金石を愛し拓本を集めた。
書は八分隷書を学び、その上に彼独特の作風を確立し、
清朝文人中に異彩を放った。
独特の肉太な方形、横画のみを太く書く裁鋒筆体が良く知られている。

世説新語 顧長康一則

傳山・老景信口 五言律詩

2006-12-24 07:54:05 | Weblog

傳山(1607-1684)
1644年、明は滅亡したが、
彼は黄冠を被り朱衣を纏い清王朝に反抗の意を示し、
諸国を流転し、牢獄へも投じられた。
その後、官職に推薦されるも固辞を貫いた。
諸子に通じ、書画もよくした。
伝統的な書に飽き足らず、自らの書風を打ち立てた。
「巧なるよりも拙に、媚なるよりも醜に、軽滑なるよりも支離に、
安排するよりも真率に書くべし」と子に伝えている。

老景信口 五言律詩
早起非真健研人臥不嘉