彼の没する5年前の作、八十有四年の作だ。
これを見たら前言を覆せねばならない。
文徴明は幾度と無く赤壁賦を書いたらしいが、
このやや行書掛かった楷書の赤壁賦が彼の最高傑作とされる。
この自由闊達さ、切れ味の鋭さは真似が出来ない。
文徴明(1470-1559)
祝允明と対照的に謹厳実直な人物として知られる。
呉中の4才子の一人とされていたが、
その実直ガリ勉の彼だけが進士に合格出来なかったのは不可思議だ
後に、。
才学人徳を望まれ官職に就いたが直ぐに辞して神仙の如き隠遁生活に入った。
その後30有余年、蘇州の文化人達と厚く交流し、
その中心人物として存在感を示した。
遊天池詩(1538)
天池に遊んだ時に作った詩を後年書にした。
天池とは蘇州の近くの華山の上に有る池の事である。
この書は黄庭堅に似せて書いたものだが、
黄庭堅の書よりもよりよいと言う。
王守仁(1472-1528)
号は陽明、陽明学の祖である。
中国哲学史上の哲人で有るが、儒家、思想家としてばかりでなく、
文才にも秀で、軍務に於いても非凡であった。
家書
陽明が病に伏した折り嫡子に宛てた諸事訓戒の手紙である。
研ぎ澄まされた人格が覗われる書だ。
祝允明(1460-1526)
生まれた時から指が一本多かったと言われている。
稀代の放蕩児であったらしい。
中年に至るまで酒を愛し放縦な生活で過ごし知事の要職を得たのは55歳であった。
しかし、翌年には退職し隠遁生活に入る。
呉中の4才子の一人に数えられ、小楷では明代随一とされた。
行草に於いても優れた作品を残している。
赤壁賦
祝允明はいろいろな書体で書いた赤壁賦を残している、
それ程に蘇軾を愛し、蘇軾の書を好んだのであろう、
彼の草書には三つの書風が見られる。
その一つが、この赤壁賦の如き秀麗華麗な普通の草書である。
沈周(1427-1509)
明中期の文人画かとして知られる。
富豪の生まれであり別宅を設け晴耕雨読の生涯を送り、
文人名士の来訪が絶えなかったと言う。
生朝自遺詩巻(1505)
沈周最晩年の作とは思えない気迫に富んでいる。
明中期の文人画かとして知られる。
富豪の生まれであり別宅を設け晴耕雨読の生涯を送り、
文人名士の来訪が絶えなかったと言う。
生朝自遺詩巻(1505)
沈周最晩年の作とは思えない気迫に富んでいる。