書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

藤原定家・源氏物語奥入

2007-07-31 08:07:32 | Weblog

藤原定家(1162-1241)
父は藤原俊成。
父の感化で早くから歌会、歌合せに参加した。
俊成撰の千載集に、8首載せられ、
自身も撰者に加わった新古今和歌集には47首の収載がある。小倉百人一首の撰者でもある。
歌学者としても優れ多くの著書を残している。
百人一首に収められているのは、
・・来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ ・・

かな書道の伝統から抜け出し独特な書風を打ち立てた、
これを「定家様」と呼び、その後の書道史に強い影響を与えた。
癖が強すぎて書人としての評価は二分されるが、
私は彼の独特の書風が好きだ。

この書も定家流の圧巻、
何とも言えない独特な味がある。

明恵・夢記断簡

2007-07-30 08:42:35 | Weblog

明恵(1173-1232)
華厳宗の高僧。
月をこよなく愛し、月の歌人とも言われている。
ほぼ同世代の西行と並べ称せられる事が多いが、
西行は50歳以上の年長者、実際に顔をあわせたのは一度有ったかどうからしい。
白州正子によると「共通しているのは好男子で、頗る女性に人気が有った」、
西行は、どちらかと言えば、無頼の生臭坊主、
それに引きかえ明恵は、ただただ一途に修行に励んだ芯から真面目な人間だったらしい。
明恵は一宗を興したわけではないのに極めて人気が高く、気取らない人柄が特に女性を惹き付けたらしい。
高山寺で栄西から頂いた茶の実を育て、茶を一般化した茶の元祖とも言われる。
「夢記」は、
19歳から40年間、見た夢を記録したもので世界でも稀な夢の日記だそうだ。

読み:
道円法師

北条義時・御教書

2007-07-28 07:03:42 | Weblog

北条義時(1162-1224)
時宗の次男、幼名は江間の小四郎。
知略に富み度量にも優れ頼朝の厚い信任を得る。
頼朝没後、父時宗を追放し第二代執権となる。
実朝を公暁に殺さしめ源氏の血統を絶つ。
承久の乱で勝利し後鳥羽上皇以下を配流し、
幕府の威力を確固たるものにした。

読み:
五月丗日ゐのときに申されたる
御ふみけふ六月六日

後鳥羽天皇・熊野懐紙

2007-07-26 08:37:55 | Weblog

後鳥羽天皇(1198-1221)
土御門、順徳、仲恭と3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。
院政機構の改革など台頭する鎌倉幕府に対して強硬的な路線を採った。
承久の乱を起こしたが完敗。後鳥羽上皇は隠岐島に配流された。
父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡に流され、
関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った。

譲位後、熊野を特に信仰され、幾度も熊野を訪れている。
その際、催された歌会での和歌懐紙を熊野懐紙と称する。

詠二首倭歌
深山紅葉  

北条政子・消息

2007-07-25 06:47:31 | Weblog

北条政子(1156-1225)
時政の長女、頼朝の妻、頼家、実朝の母。
才色兼備の女性であったらしい。
子として、妻として、母として、波乱の人生を送った。

この消息は文覚を気遣い弟子の上覚に宛てた物と言われる。
当時の政子は、頼朝、愛娘乙姫を続けてなくした時期であるが、
彼女の男勝りの気丈さが現われた書だ。
闊達な筆致だ。

御文たしかにうけたまはり候ぬ

源実朝・書状

2007-07-24 08:03:55 | Weblog

源実朝(1192-1219)
頼朝の次男。
兄頼家が出家させられ12歳で征夷大将軍に付くが、
実権は北条氏が掌握し名のみの将軍であった。
京の華美に憧れ、王朝文化を求めた。
28歳にして甥の公暁に暗殺される。

木田庄申朝助井助保

鴨長明

2007-07-22 07:26:44 | Weblog

鴨長明(1153-1216)
早くから、和歌、管弦の道に優れ、著名な歌人として知られ、
歌人としての長明を慕う実朝と親交があった。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」
で始まる方丈記は無常観の文学として知られる。


御簾七間之内五

後鳥羽天皇・熊野懐紙

2007-07-21 07:30:15 | Weblog

後鳥羽天皇(1198-1221)
土御門、順徳、仲恭と3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。
院政機構の改革など台頭する鎌倉幕府に対して強硬路線を採った。
承久の乱を起こしたが完敗、後鳥羽上皇は隠岐島に配流された。
父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡に流され、
関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った。

譲位後、熊野を特に信仰され、幾度も熊野を訪れている。
その際、催された歌会での和歌懐紙を熊野懐紙と称する。

詠二首倭歌
深山紅葉  

栄西・奉献物添状

2007-07-20 08:54:10 | Weblog

栄西(1141-1215)
日本臨済宗の開祖。
28歳と47歳時に二度入宋している。
鎌倉幕府の厚い帰依を受け、
北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたり、
源頼家の外護により京都に建仁寺を建立したりしている。
以後、幕府や朝廷の権力に取り入り禅宗の振興に努めたとされる。
重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。