先日、五月のお参りにうかがった。
小雨の降る宇佐八幡。祓い清められて、空気はここちよかった。
しかし、本殿に近づくにつれて、重いものをかんじた。
そして、師匠は楠木さんから映像をいただいた。
「龍体の日本列島が観えます。
龍体である以上(戻った)、
海岸線には欠損があちこちに観られます。」
まだ、大祓は続いている。
ホツマを読むと、かつて、昔、この日本で起きたことが垣間見える。
大倭日高見国は、今の岩手県、宮城県、福島県の辺り。(諸説有り。)
人心が乱れ、国が荒れた時、大祓の作法により、
さまざまな神たちが、国の澱みを祓え去った。
その祓えの力は、自然に備わっている力とも言える。
それを伝説だ、まがいものだと簡単に片付けてしまってもよいものかー。
ところで、ここで、本棚からひとつかみ。(笑)
タイトルは『失われた文明 一万二千年前の世界』
A・ゴルボスキー 著 中山一郎 訳
昭和47年に第一刷が出され、手元のものは、昭和54年の18刷版
世界各地に残る大洪水の話は、伝説などではなく、実際におきたもの
ではないのか。という検証がなされている本だ。
今の文明をもたらしているさまざまなものは、発見、発明された時、
人は彼らをあざけり笑い、時に迫害した。
けれども、彼らをして、理論はなりたっても、現実には不可能と
思われた事が、今では、現実となっていることを知らなければ
ならない。
彼は最期に乞うまとめている。
「これは、思索の動機付けとして、役立つものと信じている。
否、信じたい。
中略
わたしたちの意識はこのような知識を受け入れられるよう準備
されなければならない。
未来がもたらす新しいこと。意外なことを受け入れる心構えを
常に準備しておくことが、絶対に必要なのである。」
知識や、智慧。おこりうるさまざまな事象。
今回の災害にしてもだ。
それらすべてを、ひとは知りえているわけではない。
だからこそ、おこることも、謙虚に受け止め、
起こったことに対して、なんら批判することもない。
厳密に検証を積み重ねていけば、
一見、ありえないとみえることが
おこりうることの認識を深める必要を感じている。
そうして、今一度、大祓詞を読んで、祓の力を
感じていただければ幸いである。
『ふつーの日常』に掲載したものを転載、加筆修正しました。
以前にも言ったが
あなたはあなたである
あなた以外のものにはなれない
あなたにはあなたでいるという役目があり、
あなたの役割と言うものがある
そのために、必要なすべてが、準備されている
あなた以外になる必要もない
あなた自身だけが、あなたの方向を決める
あなたを導く
あなただけの時があり、あなただけの場所がある
あなたは、あなたとして、輝く
震災の後、無力感や罪悪感にさいなまれるひとが
いると聞く。
だが、それは、無用だ。
人間は、自分のできることを選んで生きている。
だから、無力感や罪悪感を選んでいることに
まず、気づくことだ
そして、自分がいる今の場所にエネルギーを
そそごう。
自分の周囲にエネルギーをそそごう。
自分でいることの意義は、限りなく大きい。
その役目は、他者とは比べられないのだ。
常におだやかな微笑みを宿していれば、
周囲はそれだけで、癒される。
大分県内では、時折、バナナの木を見かける話は、
以前にも書いたが、今年の冬は寒くて
(いつもとは少し違った感じではあったが。)
目にする木はどれも枯れて朽ちているようではあった。
いつまでも、寒い日が続き、そして、未だに雨はお湿り程度。
けれども、少しでも暖かくなって来ると、
彼らは目が覚めるような緑の葉をおい茂らせてきた。
そして、柞原さまへ行きたいとの師匠のリクエストで、
行ってきた。
目的は、いつもの杉さんとのおしゃべりではなく、
このバナナさんたち。
緑の葉は、今年の新芽からのもの。
そして、
真ん中の黒くみえている部分が花芽。
これがバナナの実になるはずだが、気候的には、
難しいようで、いくら温暖化が叫ばれても、今の大分では、
大きくならない。
まあ、これが大きく育ったら、近くの高崎山のサルの格好の
ごはんとなることだろう。(笑)
ほかにもバナナの木を見かけるのだが、どこも交通量の多いところ
だったりして、写真が撮れないので、柞原さまの参道わきのバナナ
の木を撮影した。
今年は、山々を見ていると、木々が枯れているのが目につく。
特に、竹林の枯れ方が少し多いように見える。
古神道のS先生は植物にも詳しいので、先日、この話をしてみると、
花が咲いていなかったかを聞かれたが、そうあちこちで、花が咲くとは
考えづらい。
地震などの関係で、地下では移動が起きているだろう。
地熱など、考えられる要素はある。
雨自体が少ないので、川の水位が下がっているのは、判断が
難しい。井戸水の水位の変化を読む、というのも、地震発生の
メカニズムとして、あるのだが、この情報も、今のところは
はいっていない。
だが、今に集中し、今すべきことに集中することが、
今を生きているわたしたちが、少なからずはできることだ。
枯れたように見えていたこのバナナの木も、また、新たなイノチの
時を刻み始めているのだ。
自分も、自分の時を生きよう。