日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

掛川城の巻 平成6年に木造・外観3層で再建された天守閣

2014-12-16 11:48:15 | 静岡
掛川城は掛川駅北口から歩いて7分ほど、逆川という川沿いにあります。川沿いの立地は岡崎城に似ていますね。掛川城は山内一豊の城として有名です。一豊は豊臣の時代に長浜城から掛川城主となり、秀吉の死後、関ケ原の合戦の前に率先して東軍に自らの城を提供し、本戦では戦功がなかったにもかかわらず恩賞として土佐一国を与えられ、大出世を遂げました。
一豊が掛川城主だったのは10年余りだったにもかかわらず、掛川城は一豊の城というイメージが強いですね。司馬遼太郎の「功名が辻」、NHKの大河ドラマの影響力は大きいです。

逆川に架かる緑橋。掛川城の天守閣が見えてきます。右手は太鼓櫓

城門の前に模型があります。


城門の前のシャチ


掛川城の入口、四足門


天守側の石垣


太鼓櫓


掛川城の天守閣は1994年(平成6年)に外観3層・内部4階、木造で再建されました。戦後再建された天守閣のなかで木造の物は少ないと思います。木造建築だと建築基準法や消防法をクリアできないようです。

山内一豊と千代の顔出し看板

天守閣の石垣

天守閣1階の山内一豊像。山内家の家紋は三つ葉柏、三菱マークの原型でもあります。


天守閣最上階からの眺め

眼下の太鼓櫓

最上階の天井

階段はかなり急です。

石落とし

外部から見た石落とし


霧吹きの井戸

掛川市街

天守閣下の二の丸美術館(左側)と御殿




天守閣下

駿府城から移植された家康のみかん


二の丸茶室

二の丸美術館

掛川の名産品、葛布



書院造りの御殿。掛川城の御殿は江戸時代後期に建築された貴重な城郭建築物です。

御殿内の三の間

手前は次の間、後方は書院上の間

十露盤(そろばん)池と天守閣

月の池と天守閣



高天神城の巻 今川が築き武田と徳川が争奪を繰り返した山城

2014-12-16 11:33:29 | 静岡

東海道線の掛川駅からバスに乗り、土方というバス停で下車、高天神城の追手門入口へ。


前方の山が高天神城です。


高天神城追手門前の駐車場。追手門が城の正面玄関です。


高天神城は戦国時代初期には今川氏の城でしたが、桶狭間合戦のあと今川方の城主が徳川に寝返り、その後武田と徳川が争奪を繰り返しました。元亀2年(1571年)に武田信玄が城を攻めましたがこのときは徳川方が城を死守。次に武田勝頼の攻撃によって天正2年(1574年)に落城。城を取り返すために徳川が攻め天正9年(1581年)に落城し廃城となりました。3度も攻防戦を経験し、2度落城の憂き目にあったという悲劇の城ともいえます。

いよいよ城への登り口


追手門跡の大スギ

追手門跡

本丸への道は整備されています。

本丸の南東の三の丸

三の丸跡からの眺望

高天神城址の碑

本丸跡

本丸跡からの眺望

本丸跡と御前曲輪跡の間にある元天神社

御前曲輪跡

御前曲輪跡からの眺望

的場曲輪跡




井戸曲輪

高天神城合戦将士英霊碑。あちこちの城郭跡で日露戦争や日中戦争、太平洋戦争の英霊碑は見ますが、戦国時代の武将・兵士を追悼する碑は数少ないですね。

高天神社への石段



西の丸跡に高天神社があります。

西の丸跡からの眺め



西の丸と馬場平の間の切割


馬場平。西の丸から伸びる尾根の先端です。

馬場平からの眺め


甚五郎抜け道。天正9年高天神城の落城に際して武田方の横田甚五郎がここから城を脱出し、武田勝頼に高天神城の落城を告げに走ったそうです。

袖曲輪跡

二の丸跡


天正2年戦死者の碑

堀切



空堀

尾根の先端の井楼曲輪跡

井戸曲輪からの眺望

井戸曲輪から搦手門へ下る石段。搦手側は追手側よりきちんと整備されています。




高天神社の鳥居、神社への参拝路となっています。神社へはこちらが表門ですね。

搦手側の城山