菅新内閣が、昨日8日スタートした。
今までの歴代首相とは、生い立ちや歩みが全く違う。ましてや今は亡き市川房枝さんのそばにいた方ゆえ、おのずと私自身が新首相に思う距離感も狭まるものである。
1974年、当時の参院全国区に市川房枝さんが出馬した時、私はまだ18歳であったが、すでに日本社会党支持者であった。
市川さんの主張に心動き、なぜに社会党とともに一緒にやってくれないのだろうか、社会党の側に許容や度量がないのかなと思ったほどだ。詳しくはわからなかったが。
さて、新首相は、8日の会見で「貧困や戦争といったことをなくすことこそ政治が力を尽くすべきだ」と語りながら、一方で、「戦後60年間、日米同盟を基軸としてきた。その原則は今もしっかりと続けていく必要がある。米軍普天間飛行場移設問題は、日米合意に基づいて進めていかなければならない」と言い切った。もちろん続いて、「沖縄の負担軽減にも全力を挙げて取り組んでいく」とも語ったが。
会見内容をよく見てみると、冒頭に「最小不幸の社会をつくる」と述べた意味も詳しくは分からないが、「貧困や戦争をなくす」ことと、「日米基軸、日米合意」で普天間基地は残り、新たな辺野古への海上基地建設という言葉は全く理解できない。大いに異議あり!
ましてや、その重要課題を担当してきた外交、防衛、沖縄担当相が再任では、「表紙が変わった」だけと、きつくきびしく揶揄されても仕方ないことである。
北沢防衛相は9日の会見で、「8月末までの地元沖縄との合意取り付けは困難」との見方を示し、岡田外相も「(8月末までに)沖縄の合意を求めなければならないというものではない」と、明言したという。
地元合意なんかどうでもいいというこの態度。先の三党連立を壊し、地元の理解と合意を無視軽視する、このような態度は、決して許されるものではない。
地方を切り捨て、働く人の生活をかえりみない去年までのあの政権と、どこがどのように違うと言うのか。
こう書くと、沖縄基地問題での態度と姿勢で全てをはかろうとするのは間違いなのかも知れない。
しかし、しかし、戦後65年の重い歴史が刻み込まれた沖縄に象徴される大問題である。しかも、新たな政治の、社会の、行政の、大きな転換点でもある今日である。
その時に、何ら深刻な自己反省や説明もなく、旧来の古いものをただ単に踏襲し継続し維持して行くという政治と手法なら、どんなに言葉や顔ぶれは変わっても、国民は許さないし、遅かれ早かれ圧倒的な民意により倒れていくだけである。必然である。
亡き市川房枝さんは、この事態をどのように見つめているのだろうか、余りにも悲し過ぎると思うのは、私だけではないはずである。
今までの歴代首相とは、生い立ちや歩みが全く違う。ましてや今は亡き市川房枝さんのそばにいた方ゆえ、おのずと私自身が新首相に思う距離感も狭まるものである。
1974年、当時の参院全国区に市川房枝さんが出馬した時、私はまだ18歳であったが、すでに日本社会党支持者であった。
市川さんの主張に心動き、なぜに社会党とともに一緒にやってくれないのだろうか、社会党の側に許容や度量がないのかなと思ったほどだ。詳しくはわからなかったが。
さて、新首相は、8日の会見で「貧困や戦争といったことをなくすことこそ政治が力を尽くすべきだ」と語りながら、一方で、「戦後60年間、日米同盟を基軸としてきた。その原則は今もしっかりと続けていく必要がある。米軍普天間飛行場移設問題は、日米合意に基づいて進めていかなければならない」と言い切った。もちろん続いて、「沖縄の負担軽減にも全力を挙げて取り組んでいく」とも語ったが。
会見内容をよく見てみると、冒頭に「最小不幸の社会をつくる」と述べた意味も詳しくは分からないが、「貧困や戦争をなくす」ことと、「日米基軸、日米合意」で普天間基地は残り、新たな辺野古への海上基地建設という言葉は全く理解できない。大いに異議あり!
ましてや、その重要課題を担当してきた外交、防衛、沖縄担当相が再任では、「表紙が変わった」だけと、きつくきびしく揶揄されても仕方ないことである。
北沢防衛相は9日の会見で、「8月末までの地元沖縄との合意取り付けは困難」との見方を示し、岡田外相も「(8月末までに)沖縄の合意を求めなければならないというものではない」と、明言したという。
地元合意なんかどうでもいいというこの態度。先の三党連立を壊し、地元の理解と合意を無視軽視する、このような態度は、決して許されるものではない。
地方を切り捨て、働く人の生活をかえりみない去年までのあの政権と、どこがどのように違うと言うのか。
こう書くと、沖縄基地問題での態度と姿勢で全てをはかろうとするのは間違いなのかも知れない。
しかし、しかし、戦後65年の重い歴史が刻み込まれた沖縄に象徴される大問題である。しかも、新たな政治の、社会の、行政の、大きな転換点でもある今日である。
その時に、何ら深刻な自己反省や説明もなく、旧来の古いものをただ単に踏襲し継続し維持して行くという政治と手法なら、どんなに言葉や顔ぶれは変わっても、国民は許さないし、遅かれ早かれ圧倒的な民意により倒れていくだけである。必然である。
亡き市川房枝さんは、この事態をどのように見つめているのだろうか、余りにも悲し過ぎると思うのは、私だけではないはずである。