二日目。ホテルで見た地元の新聞には豪雨被害の記事が1面トップでした。
昨日、場合によっては車で通る可能性もあった美祢市というところがいちばん大変だったようで、JR美祢線の鉄橋が川に落ちてしまいました。
その美祢市から30kmしか離れていないお隣の下関市で私たちは平穏に美味しい朝食を食べていました。
今日の始めは、長門市の人気スポット、元乃隅神社の鳥居から。駐車場のある岸壁の上から123基の奉納鳥居が海に向かって伸びています。
鳥居は商売繁盛や長寿健康を願って奉納されたものなので、基本的にコストはゼロ円。お手軽にパワースポット的名所が作り出せる妙案です。
萩に行く手前で長門市の市役所を見学。2020年に完成した新庁舎はなかなかすごかったです。
長門から萩までは山陽道の高速無料区間で行けるところを、勘違いして山の中の旧道を走ってしまいました。お昼前になんとか萩市内に到着。
萩美術館に車を置かせてもらって、お隣のボタニカルなカフェで軽くランチ。ここから徒歩で萩城下町の東側を回ります。
萩図書館。
明倫小学校。元は昭和10年に建てられた4棟の木造校舎を使用していましたが、2014年にこちらの新校舎に移転しました。校舎デザインは旧萩小学校をイメージしています。
こちらが登録有形文化財となった旧明倫小学校。小学校が移転した後ミュージアムや観光案内所、市民ギャラリーなどに改造されて、名を明倫学舎と変えました。
1973年からサンデーで連載された小山ゆうの「おれは直角」という漫画の舞台が萩明倫館だったので、その名前は子供のころから馴染んでいました。
明倫学舎のスタッフの人(30代・女性)に「おれは直角」を知っているか尋ねましたがまったく聞いたこともない様子でした。残念!
長さ90mの廊下では雑巾がけレースが開催されるそうです。
毛利家家臣のための藩校だった明倫館は廃藩置県と共に廃校に。明倫小学校はその跡地に60年後に建てられた小学校で明倫館と直接の関係はありません。
現在の明倫学舎という施設名は2017年のオープンに際して考えられた名称です。明倫館(江戸)→明倫小学校(昭和)→明倫学舎(令和)。こんな変遷です。
Rさんと別れて一人市内散歩。こちらは菊竹清訓が設計した萩市庁舎。菊竹作品にしては極めてまっとうな建物でした。
市庁舎の隣にある萩市民館も同じ菊竹清訓作品。こちらは菊竹の本領発揮という感じでやりたい放題の設計でした。後で詳しくレポートします。
山口県立萩美術館・浦上記念館。1996年。丹下健三建築事務所。
入口のあるメインの建物と独立した展示室が2棟。それらを囲む渡り廊下という構成ですが、今一つ何がしたかったのか分からない建物でした。
もうひとつ別棟の陶芸館は丹下ではなく金子信建築事務所による増築。展示室の壁に沿ってスロープで2階に上がるスタイル。
金子信建築事務所は萩にある設計事務所で、先に見た萩図書館や新・明倫小学校など萩を中心に活躍しているようでした。
萩市には国が定めた伝統的建造物群保存地区が4か所あります。最初に訪ねたのは海に近い浜崎伝建地区。中心にある住吉神社に車を置かせてもらいました。
城下町の形成にともなって開かれた港町で、近世は北前船の寄港地として廻船業と水産業で栄えました。
旧山村家住宅。表屋造りと呼ばれる上方の建築様式を取り入れた町家です。
中で案内してもらうことができました。見ているのは引札という江戸から大正時代にかけて、商店、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ。
古い建物を維持していくのは手間もコストもかかって本当に大変です。
町屋の説明をしていただいた方に松陰神社は行ったのかと聞かれて慌てて見に行った世界遺産、松下村塾。危ない忘れてた。「花燃ゆ」で見ていたあれはこれだったか。
松陰神社本殿。世田谷育ちなので東京の松陰神社は馴染みがありました。「ご本家」に来られて光栄です。
時刻も16時になったので一度荷物を置きに本日の宿へ。もう一つの伝建地区、旧三の丸のど真ん中にある「北門屋敷」と言う名の旅館です。
車でここまで来て、ここからどうすればいいのか、駐車場はどこなのかまごついてしまいました。このまま門の中に入れば良かったのです。
きれいな庭のある温泉旅館でした。皇太子と雅子様がご結婚後に最初に泊られた宿だそうです。へ~。
Rさんはこちらのお部屋で休憩。私は今日のうちに堀内伝建地区と萩城を見ておきたいので徒歩で外出。
毛利輝元が指月山に築城し、その周囲に作った町割りが良く残されています。昭和51年、秋田の角館、京都祇園、木曽妻籠宿と共に選ばれた全国で最初の伝建地区の一つです。
明治以降の近代化では城周辺の広大な武家屋敷が公共施設用地になるのが常ですが、ここ萩では屋敷跡ではなく城から離れた低湿地帯に市役所、公民館、学校が作られました。
古い家屋があるだけで軍事施設がなかったので空襲の対象にもならず。そんな幸運が重なってこうやって江戸の街並みを歩くことができています。
萩に入ってからまったく意識していませんでしたが、実は萩は海辺の町でした。砂浜の先に見えているのが萩城の背後にある指月山。
海岸線からの攻撃に備えて山裾にも切れ目なく石垣と櫓が築かれていました。山頂にも詰めの城がありました。
城内へ。濠の水は海水が引き込まれているそうです。
天守台。江戸時代には5層5階の天守閣がそびえ立っていましたが、1874年(明治7年)に解体されました。
海を背にして、二方を川に囲まれた場所に城があり、繁栄した城下町から見れば結果的に町のはずれに城があるという町割りになりました。
明治以降、本丸、二の丸がほとんど手つかずで残されたのは城跡が一番不便な場所だったからかも知れません。
夕食も美味しかった。今回2か所の宿がどちらも当りで良かったです。
ちょろっとふくも出ました。
昨日、場合によっては車で通る可能性もあった美祢市というところがいちばん大変だったようで、JR美祢線の鉄橋が川に落ちてしまいました。
その美祢市から30kmしか離れていないお隣の下関市で私たちは平穏に美味しい朝食を食べていました。
今日の始めは、長門市の人気スポット、元乃隅神社の鳥居から。駐車場のある岸壁の上から123基の奉納鳥居が海に向かって伸びています。
鳥居は商売繁盛や長寿健康を願って奉納されたものなので、基本的にコストはゼロ円。お手軽にパワースポット的名所が作り出せる妙案です。
萩に行く手前で長門市の市役所を見学。2020年に完成した新庁舎はなかなかすごかったです。
長門から萩までは山陽道の高速無料区間で行けるところを、勘違いして山の中の旧道を走ってしまいました。お昼前になんとか萩市内に到着。
萩美術館に車を置かせてもらって、お隣のボタニカルなカフェで軽くランチ。ここから徒歩で萩城下町の東側を回ります。
萩図書館。
明倫小学校。元は昭和10年に建てられた4棟の木造校舎を使用していましたが、2014年にこちらの新校舎に移転しました。校舎デザインは旧萩小学校をイメージしています。
こちらが登録有形文化財となった旧明倫小学校。小学校が移転した後ミュージアムや観光案内所、市民ギャラリーなどに改造されて、名を明倫学舎と変えました。
1973年からサンデーで連載された小山ゆうの「おれは直角」という漫画の舞台が萩明倫館だったので、その名前は子供のころから馴染んでいました。
明倫学舎のスタッフの人(30代・女性)に「おれは直角」を知っているか尋ねましたがまったく聞いたこともない様子でした。残念!
長さ90mの廊下では雑巾がけレースが開催されるそうです。
毛利家家臣のための藩校だった明倫館は廃藩置県と共に廃校に。明倫小学校はその跡地に60年後に建てられた小学校で明倫館と直接の関係はありません。
現在の明倫学舎という施設名は2017年のオープンに際して考えられた名称です。明倫館(江戸)→明倫小学校(昭和)→明倫学舎(令和)。こんな変遷です。
Rさんと別れて一人市内散歩。こちらは菊竹清訓が設計した萩市庁舎。菊竹作品にしては極めてまっとうな建物でした。
市庁舎の隣にある萩市民館も同じ菊竹清訓作品。こちらは菊竹の本領発揮という感じでやりたい放題の設計でした。後で詳しくレポートします。
山口県立萩美術館・浦上記念館。1996年。丹下健三建築事務所。
入口のあるメインの建物と独立した展示室が2棟。それらを囲む渡り廊下という構成ですが、今一つ何がしたかったのか分からない建物でした。
もうひとつ別棟の陶芸館は丹下ではなく金子信建築事務所による増築。展示室の壁に沿ってスロープで2階に上がるスタイル。
金子信建築事務所は萩にある設計事務所で、先に見た萩図書館や新・明倫小学校など萩を中心に活躍しているようでした。
萩市には国が定めた伝統的建造物群保存地区が4か所あります。最初に訪ねたのは海に近い浜崎伝建地区。中心にある住吉神社に車を置かせてもらいました。
城下町の形成にともなって開かれた港町で、近世は北前船の寄港地として廻船業と水産業で栄えました。
旧山村家住宅。表屋造りと呼ばれる上方の建築様式を取り入れた町家です。
中で案内してもらうことができました。見ているのは引札という江戸から大正時代にかけて、商店、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ。
古い建物を維持していくのは手間もコストもかかって本当に大変です。
町屋の説明をしていただいた方に松陰神社は行ったのかと聞かれて慌てて見に行った世界遺産、松下村塾。危ない忘れてた。「花燃ゆ」で見ていたあれはこれだったか。
松陰神社本殿。世田谷育ちなので東京の松陰神社は馴染みがありました。「ご本家」に来られて光栄です。
時刻も16時になったので一度荷物を置きに本日の宿へ。もう一つの伝建地区、旧三の丸のど真ん中にある「北門屋敷」と言う名の旅館です。
車でここまで来て、ここからどうすればいいのか、駐車場はどこなのかまごついてしまいました。このまま門の中に入れば良かったのです。
きれいな庭のある温泉旅館でした。皇太子と雅子様がご結婚後に最初に泊られた宿だそうです。へ~。
Rさんはこちらのお部屋で休憩。私は今日のうちに堀内伝建地区と萩城を見ておきたいので徒歩で外出。
毛利輝元が指月山に築城し、その周囲に作った町割りが良く残されています。昭和51年、秋田の角館、京都祇園、木曽妻籠宿と共に選ばれた全国で最初の伝建地区の一つです。
明治以降の近代化では城周辺の広大な武家屋敷が公共施設用地になるのが常ですが、ここ萩では屋敷跡ではなく城から離れた低湿地帯に市役所、公民館、学校が作られました。
古い家屋があるだけで軍事施設がなかったので空襲の対象にもならず。そんな幸運が重なってこうやって江戸の街並みを歩くことができています。
萩に入ってからまったく意識していませんでしたが、実は萩は海辺の町でした。砂浜の先に見えているのが萩城の背後にある指月山。
海岸線からの攻撃に備えて山裾にも切れ目なく石垣と櫓が築かれていました。山頂にも詰めの城がありました。
城内へ。濠の水は海水が引き込まれているそうです。
天守台。江戸時代には5層5階の天守閣がそびえ立っていましたが、1874年(明治7年)に解体されました。
海を背にして、二方を川に囲まれた場所に城があり、繁栄した城下町から見れば結果的に町のはずれに城があるという町割りになりました。
明治以降、本丸、二の丸がほとんど手つかずで残されたのは城跡が一番不便な場所だったからかも知れません。
夕食も美味しかった。今回2か所の宿がどちらも当りで良かったです。
ちょろっとふくも出ました。