香りと食でカラダを幸せにする芳香/料理愛好家

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加藤サキ子

8月9日 長崎原爆投下の日

2015-08-06 23:50:54 | 日記
今年もまた、あの日と同じ暑い8月9日がやってきます
私の母、祖父母、そして母の弟は長崎に投下された原爆により被爆

そして母の弟である私の叔父はあの日以来、行方不明のままです

あの日祖父は三菱造船所に行ったものの、体調が悪く早々に家に戻って、縁側に座っていました

母は昼間近で、昼食を作っている最中
当時、母の一家は一本鳥居近くから、諏訪神社近くに新しい家を建てている最中で、一家で新築中の家にいたのです

母の兄二人は兵士として外地に出兵していました
弟は、その日は腕が痛いから、と学校を休んだものの家にはいなかったのです

そして、突然の飛行機の音
「空襲警報鳴らんとに、飛行機が来よるばい」
「あれ、落下傘ば、落としよる、防空壕に行かんと」
「もう。間にあ。。。」

その時、あたり一面真っ白で何も見えなくなるほどの強い閃光がみんなを包んだのでした

そして、母は爆風に吹き飛ばされ、建物の一番奥の部屋の壁に体を打ちつけられました

そして、そこに積んであった布団の上に何度か、バウンドして落ちたのでした

それから、どれだけ気を失っていたのか

やがて、目が覚めた時は、強い吐き気を催して、這いつくばって外に出て吐いたのです

そして、朝まで水を飲んでは吐いて、を繰り返しながら

祖父は、上半身、裸だったのでひどい火傷

祖母は、建築資材の材木で頭を打って血だらけ

何が起きたのか

その日から、母は心をそこに置いたままだったような気がします

母に推察するには、多分坂本(一本鳥居)に弟は行っていたのだと思う、と

みんな抜け殻のようになっていたのです

そして、あの日から、母の家では弟のことは誰も口にしなかったのです

生きているのか死んでいるのかも、確かめることなく
それぞれの心に封印して

晩年、祖父母がいなくなってから、母は死没者名簿を見に行きました

もちろん名前などありません
当時は名前を書いた名札を胸に縫い付けていました
でもそれは判別できれば、のこと
溶けてなくなれば、わかるはずもなく

家族が申告することもなく、叔父は行方不明のままです

昔私は不思議な体験をしたことがありました
目を瞑っていたら、突然ものすごい閃光とともに、強い風が体をすり抜けて行ったのです

その時、叔父のことを思いました
今の体験は、あの日叔父の体に起きたこと、なのではと
従兄弟たちが、母の実家に飾ってある行方不明の叔父の肖像画を見て、私の口元が似ている、とよく言っていました
毎年そのことを思い出し、冥福を祈ります

母のアルバムには当時、写真館で同級生と一緒に撮った写真がたくさん残されていました
でも、あの日以降、写真の中のみんながどうなったか、女学校はどうだったのかは一切話すことはありません
決まって、労働奉仕のことと、戦争中のことを繰り返し話すだけ
あの日以降のこと、出てこないのです

母はあの日の話もこれ以上話しません
町の方の人たちは、怪我はしとらんのに、内臓が腐って死んだらしい、と
自分はたくさん吐いたから、毒ガス体借り抜けたんだと思う
祖父母は火傷の湯治に嬉野温泉に行って、ケロイドはほとんど分からないほどに回復していました
幸い、誰も後遺症で苦しむことはありませんでした
祖父母からも私は一度もその日のことを聞いたことがありませんでした

私もいわゆる被爆二世です
生前、母が
「私が申告すれば、あんたも被爆者手帳、手に入るよ」と言っていました
私も幸い特に、悪いところはないので、いらないよ、と申告しないままとなりました
今思えば、追跡調査の対象になっていればよかったのか、とも思うことがあります

母は晩年になってもずっと言い続けていました
「トルーマンが原爆をおとしたんだ」と

日本びいきだったアインシュタイン
自分の研究によってこともあろうか、日本に原爆が投下されたことを知ると、強いショックでを受けていたそうです

被爆によって無残に破壊された浦上天主堂
アメリカ軍が全世界のカソリック、キリスト教信者に破壊されたマリア様やイエス様、天使を見せないために、いち早く処分したのだそうです

8月はそんな日の鎮魂の月なのです