問わず語りの...

流れに任せて

「人は誰が何と言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ

2021-12-15 09:26:46 | 名台詞

12月12日放送、NHK大河ドラマ『青天を衝け』より、鳥羽伏見の戦いを振り返っての、徳川慶喜公(草彅剛)のセリフ。

 

トップに立つ人が「動くな、騒ぐな、いくさをしてはならぬ」と静止しても、下のものたちが言うことを聞かない。結果暴発してしまい、戦争がはじまる。歴史をみていますと、そういう場面に何度も遭遇する、そんな気がします。

慶喜公はなんとかいくさを回避しようとしていた。こちらから仕掛けなければ、薩長は攻めてこない。薩長は大義名分が欲しいのだから、こちらから攻めなければ、敵は攻めてこない。

慶喜公はそれがわかっていた、だから、兵をあげようとはしなかった。しかし

ならば、いくさをせざるを得ないようにしむけてやろう。そう考えたのが

西郷隆盛でした。

 

西郷はどうすれば人がいくさをしたくなるのか、その苦労に苦労を重ねた人生の中でよくわかっていたのでしょう。人の心をよく知っていた。

良くも悪くも。

西郷は相楽総三率いる「赤報隊」を使って江戸市中に騒乱を起こさせます。そうして暴れるだけ暴れた後は、わざと目立つように薩摩藩の江戸藩邸に逃げ帰る。これを繰り返します。

江戸市中の警護を任されていた庄内藩は、それでも当初は自重していました。慶喜公の下知に従い、攻撃は控えていた。しかし赤報隊はついに、江戸城二の丸の放火に及びます。

これでついに庄内藩の堪忍袋の緒が切れてしまう。庄内藩は慶喜公の命令を破り、薩摩藩江戸藩邸に火をかけてしまう。

大阪にいた慶喜公はこれを聞き落胆したことでしょう。案の定、慶喜公とともに大阪にあった、松平容保公以下すべての幕閣が「薩長討つべし!」を主張しはじめ、慶喜公にはこれを抑えることができなくなってしまう。

西郷の策略が見事に功を奏し、鳥羽伏見の戦いの戦端が開かれることになるのです。

容保公らにも言い分はあったことでしょう。容保公はある意味「純粋」に過ぎた、だからこそ老練な西郷の謀略に抵抗できなかった。

徳川家を守りたい、それが会津の使命、だから......。

西郷という人は、ときに天使にも、ときに悪魔にもなり得る、途轍もなく振れ幅の大きな人だったのでしょう。もはやいくさは始まってしまった。しかも薩長は錦の御旗を掲げた。旧幕府軍は朝敵になってしまった。

これ以上戦火を拡大させないためには、旧幕府側の旗印である慶喜公が身を引く他はない。慶喜公は戦い続ける兵士たちを置き去りに、江戸へ逃げ帰り、ひたすら謹慎します。

さぞや苦しかった、辛かった、さぞや

無念だったことでしょう。

しかしこの慶喜公の挙によって、戊辰戦争は東北の一部だけの限定的な、比較的小規模な内乱で終わった。もしも慶喜公があのままいくさを続けていたら、内乱は全国規模に拡大し、日本は大変なことになっていた可能性は否定できない。慶喜公の行動は、結果として日本を救った。

明治政府を救った。

もちろん、小規模な内乱とはいえ、会津藩や二本松藩をはじめとする、東北諸藩の戦いの凄絶さは筆舌に尽くしがたい。これはこれで、しっかりと伝えていかなければいけません。

 

それにしても、西郷隆盛という人はとんでもない人です。だからこそその評価はバラバラで、善悪双方に極端に分かれる。私にも正直よくわからない。わかりづらい人です。

慶喜公もまた、長らくその評価は低いものがあったけれど、ここへ来て再評価の声が高まった感があります。思えば両者ともに、あの時代には必要な人物だった。両者ともになければ

今の日本はなかった。

 

今の日本があるのは、決して薩長ら新政府だけのお陰ではない。旧幕府ことに慶喜公のお陰でもあるということを、忘れてはいけない。

しっかりと、伝えていかなければならない。

 

「人は誰が何と言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ」

これは誰にでもあり得ること、誰にでもかかり得る陥穽だということ

肝に銘じておかねば。

 

 

コメント (2)
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