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『鎌倉殿の13人』の背景① 保元・平治の乱

2022-01-17 09:40:03 | 歴史、民俗

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第2話まで放送されましたね。色々叩く人もいるようですが、ドラマとして観れば、非常に面白く出来上がっており、今のところ上手くいっていると思います。

現代語風のセリフ回しも、三谷作品では『新撰組!』『真田丸』と過去作品でもやってきたこと、今更何をいっているのか。三谷作品だという時点で覚悟しとけ!という感じ。むしろ現代風な言葉遣いは、遠い遠い鎌倉時代を、すごく近いものに感じさせてくれる。良い効果を発揮していると思う。

「首チョンパ」「そっちかよ!」「ゾッコン」「バカおっしゃい」「これだよー」等々の使い方は絶妙。さすが三谷幸喜だと、私なぞは喜んで手を叩いてしまいましたが。

いずれにしろまだ第2話、これからの展開に期待しましょう。

 

さて、その『鎌倉殿の13人』の時代背景について、知らないよりは知っていた方が、より楽しめるのではないかと思い、簡単な解説を試みたいと思います。

 

平安時代、藤原摂関家はその娘たちを天皇に嫁がせることによって天皇の外戚となり、権力を欲しいままにしていました。いわゆる摂関政治ですね。

これが治暦4年(1068)に第71代後三条天皇が即位すると、がらりと様変わりします。後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに、藤原氏を外戚に持たない天皇でした。

後三条天皇はそれまで手の付けられることのなかった、藤原摂関家の所有する荘園の整理に着手、藤原氏の経済的、政治的基盤を弱め、ここに摂関政治は終わりを告げます。

後三条天皇の次に即位した第72代白河天皇が19歳で即位、白河天皇は即位より15年後、天皇位を皇子に譲位し、自らは太上天皇(上皇)となって政治の実権を握ります。これを「院政」といいます。

この院政によって藤原氏の権力は益々弱まっていき、摂関政治の頃には藤原氏が握っていた次期天皇の指名権が上皇に移り、白河上皇は自らの皇子を第73代堀河天皇に、孫を第74代鳥羽天皇に、そして曾孫を第75代崇徳天皇にそれぞれ即位させます。

 

白河上皇が崩御されると、次に鳥羽上皇が政治の中心に立たれるわけですが、この鳥羽上皇と崇徳天皇との間には、どうやら確執があったらしく、崇徳天皇は鳥羽上皇によって無理矢理譲位させられてしまいます。

そうして第76代近衛天皇が即位されますが、近衛天皇は若くして病死されてしまいます。次に立たれたのが第77代後白河天皇、崇徳上皇の同母弟に当たられる方です。

さらにはこの後白河天皇の皇子が皇太子に指名され、せめて自分の皇子に天皇位を継がせたいと考えていた崇徳上皇の夢は、儚く潰えてしまいます。

崇徳上皇の無念、悔しさたるや、いかばかりであったでしょうか。

 

そればかりか保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御されると、近衛天皇が若くして崩御されたのは、崇徳上皇が呪い殺したせいだという噂が、どこからともなく流れ始めます。これに身の危険を感じた崇徳上皇は挙兵の準備を始めます。

おそらくこれは、後白河天皇の仕掛けた罠であったと思われ、崇徳上皇が挙兵の準備をしているとの情報をいち早く得た天皇は先手を打ち、平清盛や源義朝らを起用して崇徳上皇の館を襲撃させます。

崇徳上皇は捕らえられ讃岐に配流されます。これが保元の乱です。

 

平治元年(1159)、後白河天皇は譲位して後白河上皇となり、第78代二条天皇が即位されるのですが、今度は後白河上皇派と、二条天皇親政派のとの間の確執から争いが起き、戦乱に発展します。結果、後白河派の平清盛が二条派の源義朝を破り、やがて平氏が政治の実権を握るようになっていくのです。

これが平治の乱です。

源義朝の子、源頼朝はまだ幼少でもあったせいか、清盛によって命は助けられ、伊豆の地に配流されたのでした。

 

 

つづく。

 

コメント (2)
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