問わず語りの...

流れに任せて

孝明天皇とその時代 まとめ

2022-01-13 05:33:05 | 歴史、民俗

一橋慶喜公が第15代将軍に就任したのが、慶應2年12月5日のこと。しかしそのわずか20日後に、孝明天皇が崩御されてしまいます。一会桑体制はあくまでも孝明天皇あってこそのもの、天皇の崩御によって、一会桑は事実上消滅してしまいます。

その後の展開は御存じの通り。大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争......。旧体制は終焉を迎え、明治新政府による新たな体制が、日本を導いていく。

 

このように、孝明天皇の頑ななまでの「攘夷」と「佐幕」との御意志が、佐幕派と倒幕派と双方を刺激し、時代を動かしていった。孝明天皇でなければ、時代は動かず、明治維新も起きなかったとするのは言い過ぎでしょうか?

倒幕派にとっては孝明天皇の御存在が最大の障壁となっていたわけで、これが結果として倒幕派の団結を促し、より熟成させていったことは、否めない事実だと思う。孝明天皇の思うところとは真逆の方向に進んでいったけど、孝明天皇のお陰様で、明治維新は成ったといっていい。

やはり日本の歴史を動かすのは天皇です。日本の歴史は天皇の歴史だ。

色々と紆余曲折はあったけれど、結局は納まるべきところへ納まっていく。なんでしょう?この絶妙さ。まるで「何者」かの「意思」が働いているかのようだ。

日本は「不思議の国」です。

 

明治新政府とは、実は孝明天皇の御意思に反するかたちで成立した面があります。つまりは「違勅」の政権だともいえるわけで、これが知られるのは明治新政府にとっては非常に都合が悪い。

だから、孝明天皇の御事績は「封印」され、100年の間公開されませんでした。

明治新政府によって朝敵指定を受けた会津藩主・松平容保公は、「八月十八日の政変」の成功の後、孝明天皇より御宸翰(天皇直筆の書簡)を賜っており、これは孝明天皇の容保公への強い信頼を示すもので、容保公は朝敵などではないことの最大の証明です。これが世間に知られることもやはりマズい。明治政府は旧会津藩士の山川健次郎などに、この事実を公開しないでくれと、懇願したと伝えられています。

 

私は以前、「敗者の歴史」という視点から歴史を語ろうとしていました。その視点から見れば、明治政府のこのような行動は憤り以外の何者でもありませんでしょう。しかし今、私の視点は違うところにある。

結局、人間のやることです。正しいこと間違っていること、綺麗なこと汚いこと、両方あって人間だ。完璧なことなどこの世にはない。人間のやることに完璧はない。

佐幕派も倒幕派も、孝明帝も、みんな日本の将来に危機感を抱き、何とかしなければという思いからの行動だった。日本を思っての行動だったわけです。そこには基本、朝廷に盾突くなどという意思はなかった。結果として天皇の御意思に反することになっても、そこには「反天皇」の意識などなかった。

「朝敵」などどこにもいなかった。

 

私は今、「不思議の国ニッポン」にかつて起こった「奇跡」を

噛みしめたいと思っています。

 

日本は良い国だ。

コメント (8)
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