問わず語りの...

流れに任せて

孝明天皇とその時代 ④

2022-01-12 05:56:14 | 歴史、民俗

慶應元年(1865)、米英仏蘭連合艦隊が神戸沖に現れ、開港と安政5か国条約の勅許を求めてきました。一会桑は幕府の意を汲みつつ、孝明天皇に勅許をだすよう粘り強く説得を続けます。孝明天皇としては、信頼する松平容保の申すことでもあり、攘夷はもはや現実的ではないことを悟ったのかもしれません。時代は天皇が望む方向とは逆の方向に向かっていました。

遂に天皇は条約に勅許を与えます。これにより長らく違勅状態にあった条約は正式なものとなりました。

このときの天皇の失意と孤独感、いかばかりでありまでしょうか。

 

さて、倒幕と開国という目的を定めた薩摩藩と長州藩は、坂本龍馬の仲介で慶應2年(1866)薩長同盟を締結します。討幕派に一致団結を促したのは、一会桑体制の排他的な政治姿勢と、やはり孝明帝があくまでも公武合体、幕府の存続に強くこだわっていた、ということもあったからでしょう。

同年、第二次長州征伐が行なわれますが、長州と同盟を結んでいた薩摩は参戦しない。薩長同盟のことを幕府側はまったく把握していなかったようで、幕府側としてはなぜ薩摩が参戦しないのか理解出来なかった。戦況は幕府に不利な状況のまま進み、そんな最中、幕府軍の総大将だった将軍家茂が病死してしまいます。これにより一橋慶喜は休戦を決定し、撤退します。この頃から討幕派は益々その勢いを増していき、幕府瓦解は時間の問題となっていきます。

それでも孝明天皇は「攘夷」と「佐幕」の信念を曲げなかった。条約に勅許を与えたとはいえ、御所に近い神戸の開港だけは断固拒絶していました。

政務はあくまで幕府にまかせてあるので、ある程度までは妥協もしよう。しかし、どうしても枉げられない一線が、天皇にはおありになった、ということなのでしょう。

ここへきて孝明天皇の御存在は、討幕派にとって最大の障壁となっていたのです。

 

慶應2年暮れ、孝明天皇はにわかの発熱に見舞われ、発疹が現れたため、典医一同は痘瘡(天然痘)との診断を下します。

その後天皇は順調に回復して行かれましたが、12月24日の夜に容態が急変、再び高熱に見舞われます。激しい下痢、嘔吐、下血を繰り返し、12月25日午後11時頃、「九穴より御脱血」という筆舌に尽くしがたい苦しみの末、壮絶な崩御を遂げられました。満35歳の若さでした。

御壮健であったはずの天皇の、病による突然の崩御。討幕派にとってはあまりにタイミングが良すぎる崩御に、当時から暗殺説が噂されていたようですが、私にはこれに関して特にコメントする言葉はありません。ただただ、ただただ、

孝明天皇の御無念を思うばかり。

 

孝明天皇の崩御により、14歳であった明治天皇が践祚されます、以降、朝廷でも討幕派が優勢となり、討幕派の勢いはいや増しに増していくことになるのです。

幕府瓦解は、もはや秒読み段階でした。

 

 

つづく。

コメント (2)
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