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流れに任せて

孝明天皇とその時代 ②

2022-01-10 05:02:36 | 歴史、民俗

安政5年(1858)、幕府大老に就任した井伊直弼は、「条約の承認は必ずしも朝廷の勅許は必要ない」として、朝廷の意向を無視して日米修好通商条約を締結、箱館に続き横浜、新潟、神戸、長崎の開港を決めてしまう。条約は領事裁判権を認め、関税自主権がない不平等なものでした。

孝明天皇に報告がなされたときには、すでに条約が締結された後でした。これに激怒した天皇は、譲位の意向、つまり「天皇を辞める」との意向を表明します。

よほど怒り心頭に達していたのでしょうね。

そうして天皇は、幕政改革を示唆した勅を幕府に出そうとしますが、幕府はこれを受け取ろうとしない、最終的には水戸藩に勅を出し、これを各藩に伝達するようにと伝えます(戊午の密勅)。この勅を出したことで、最終的に天皇は、譲位の意向を取り下げました。

この戊午の密勅。内容としては、条約を朝廷に無断で調印したことに異議を唱えつつも、諸大名が協力して幕府を助け、公武合体の体制が続くことを願っているというもので、密勅というほど過激な内容ではないのですが、これが水戸藩に出されたということが問題でした。

「禁中並公家諸法度」では、朝廷と徳川将軍家以外の大名が、直接連絡を取り合うことを禁止しており、この密勅はその法令に明確に違反している。内容は特に問題ないにしても、この法令破りが幕府、特に井伊直弼を刺激し、安政の大獄の直接の引き金となってしまいます。

井伊はこの密勅に直接関わったものだけでなく、攘夷派の志士や、一橋慶喜などの政敵をも処罰の対象とします。

これが大きな恨みを買い、攘夷派は対幕府強硬姿勢を明確にしていく。そうして万延元年(1860)、水戸脱藩浪士により、井伊直弼は桜田門外にて暗殺されます。

井伊暗殺により大獄は終結、幕府は朝廷との融和策を進め、薩摩藩の島津久光の助言を受け、孝明天皇の御妹君、皇女和宮を、14代将軍徳川家茂に降嫁させることを決定します。

この和宮降嫁に反発した攘夷派志士が、文久2年(1862)、幕府老中安藤信正の暗殺を試み、坂下門外の変を起こします。暗殺自体は失敗に終わりますが、これにより幕府の権威は益々失墜の度を強めていくことになるのです。

 

孝明天皇はあくまで幕府と朝廷がともに手を取り合いながら、攘夷を進めていくことを政治信条としていました。これにより京都では攘夷派が力をつけ始め、薩摩や長州などの外様大名が京都に進出、また志士を自称する下級武士たちが続々と集まってきて政治活動を展開していく。京都はさしずめ、攘夷派の巣窟と化していきます。

このような政局の中で、相対的に朝廷の権威が上がり、幕府の権威は墜ちていく。そうして文久3年(1863)、229年間途絶えていた将軍の上洛が実現します。将軍は天皇の家臣として御所に参内、現実的には実行不可能といっていい攘夷の決行を約束させられてしまいます。

天皇は将軍はじめ諸侯を引き連れ、攘夷祈願のため加茂社に行幸します。「禁中並公家諸法度」によって、天皇の外出は禁止されていましたから、この天皇行幸は寛永3年(1626)以来237年ぶりのことでした。この行列に向かって高杉晋作が「征夷大将軍!」と声を掛けたというのは、有名な話。

天皇は続けて、石清水社にも攘夷祈願の行幸をします。家康以来の朝廷統制はこうして崩れていき、朝廷の権威はいまやまさしく、日の出の勢いでした。

 

つづく。

 

コメント (2)
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