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『鎌倉殿の13人』の背景終章 平氏滅亡と三種の神器

2022-01-20 13:49:19 | 芸能、音楽

頼朝が立ってからの経緯とか、勝ったり負けたりを繰り返したりだとか、そこには色々な展開があるのですが、あくまでも簡単に解説ということなので、そこは華麗にすっ飛ばします。では。

 

治承5年(1181)、栄耀栄華の限りを尽くした平清盛がついに病歿。カリスマを失った平氏は一挙に没落への道を進みます。

寿永2年(1183)、木曽で挙兵した源義仲の軍勢は、以仁王の忘れ形見北陸宮を擁することで、官軍との意識を強め進撃。越中、加賀と平氏の軍勢を破り京都に迫ります。清盛の後を継いだ平宗盛は、幼い安徳天皇を連れ、三種の神器とともに西へ落ち延びます。

入京した義仲軍は寄せ集めの軍隊で、義仲による統制がとれてはいなかった。彼らは京都市内で乱暴狼藉を繰り返し、飢饉の発生で食料事情がひっ迫しているにも関わらず、食料の強奪を繰り返す。義仲は北陸宮を皇位につけるべきだと、皇位継承に口出しをする。後白河上皇は平氏より始末が悪いと、鎌倉に拠点を置いていた源頼朝に、上京するよう要請します。

義仲と頼朝には対立があった。頼朝は後白河院の要請に、自らは鎌倉を動かず、源範頼と源義経を代官として派遣。義仲軍はこれと戦い敗れ、義仲は琵琶湖畔・粟津にて討ち死にします。

 

西へ逃れていた平氏でしたが、寿永3年(1184)、一の谷の合戦に敗れ後退。義経による「鵯越の坂落とし」があった戦いですね。そして翌文治元年(1185)、屋島、壇之浦と相次いで敗れ、平氏は幼い安徳天皇を道連れに、三種の神器とともに、海の藻屑と消え去りました。

この一連の戦いにおける義経の活躍は目覚ましいものがありました。その常識を無視した戦術は平氏を翻弄し、味方の源氏をも戸惑わせた。戦闘に関しては「天才」だったといっていい。しかし義経と頼朝はこの後仲違いするようになっていき、これが義経の悲劇、平泉滅亡へとつながっていくのですが、これは後々の話。

 

さて、三種の神器は海の藻屑と消えたのか?皇位継承権を証明するたいせつな神器が?

私がこの一連の記事で書きたかったのは、実はこれなんです。ここまでの展開はある意味、長い長い前振りだと言っていい。

 

ご存じの方もおられるでしょうが、三種の神器の一つである八咫鏡は、本物は伊勢神宮に祀られており、御所にあったのはその形代です。天叢雲剣は熱田神宮にあり、平氏が持ち出したのはやはり形代。八尺瓊勾玉のみ本物であったようです。

このうち鏡は残されており、剣と勾玉が海に消えた。剣は形代ですから特に問題はない。後に伊勢神宮より新たな刀を一振りいただき、これを新たな形代としたそうです。

問題は勾玉です。これは本物でしたから、無くなってしまっては大変なことになる。だから大捜索が行われたらしいですが、なかなか見つからなかった。

 

ところが、

 

この勾玉、箱に入った状態で、海岸にうちあげられていたのが発見されたそうです。

ちゃんと帰ってきたんですよ、凄いと思いません?

 

皇位継承権を証明する大切な神器は、こうしてどれ一つとして欠けることはなかったんです。

なんだか、「奇跡」を感じるのは、私だけでしょうか。

 

以上、『鎌倉殿の13人』にかこつけた、三種の神器の奇跡のお話でした。

 

 

おしまい

 

 

 

コメント (4)
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