問わず語りの...

流れに任せて

孝明天皇とその時代 ③

2022-01-11 05:49:23 | 歴史、民俗

将軍上洛に先立つ文久2年、幕府は悪化する一方の京都の治安維持のため、「京都守護職」というあらたな役職を設け、会津藩主・松平容保がこれに就任することになりました。

このような時期にこのような役職に就くなど、火事場に薪を背負って飛び込むようなもの。容保公は再三固辞し続けましたが、越前藩主・松平春嶽が会津藩家訓を持ち出して就任を迫り、容保公は断り切れなくなってしまいます。

就任を受け入れたのち、会津藩江戸藩邸にて、「これで会津藩は滅びる」と、君臣手を取り合って号泣したと伝えられています。

孝明天皇は容保公の素直で真っすぐな気性を愛でておられたようです。将軍・徳川家茂もまた、孝明天皇のお気に入りで、両者ともその気性は真っすぐなものでした。孝明天皇はそのような人物に好感を持ち、権謀術数に明け暮れるような者たちを、嫌う気持ちがあったのだろうと思われ、それが攘夷派志士たちへの嫌悪感へと繋がっていった部分は大いにあると思われます。

 

さて、幕府は朝廷より攘夷決行の日を文久3年5月10日と約束させられてしまいましたが、もちろん攘夷決行など現実には不可能、幕府はこの日を、あくまでも開国拒否を談判する日としていたのですが、長州藩が攘夷を決行、関門海峡を通る米国商船、フランス軍艦、オランダ軍艦に砲撃を仕掛けてしまう。これが元治元年の馬関戦争の引き金となるわけです。

京都では尊攘派の公家や浪士たちが、天皇の権威をかさに着て違勅(偽物の勅)を乱発し政局を混乱させます。そうして孝明天皇の御意志を無視したかたちで、天皇の「大和行幸」を画策します。大和行幸とは、大和にある神武天皇陵に参拝し攘夷決行を奏上、天皇親政を復活させるという大胆というか無謀な計画で、あくまで公武合体を目指す孝明天皇には、到底受け入れられるものではありませんでした。

この計画は京都守護職の松平容保や、当時は公武合体派だった薩摩藩などの知るところとなり、彼ら公武合体派は攘夷派がこれ以上過激化することを防ぐため、孝明天皇と朝廷内の公武合体派と結託し、攘夷派公家と長州藩兵を京都から追い出すことに成功します。これを「八月十八日の政変」と言います。

翌元治元年(1864)、長州藩は京都での覇権を回復しようと軍を率いて上洛、御所近辺で会津・薩摩連合軍と戦闘に入ります。結果は長州側の惨敗に終わり、禁裏に向けて発砲したということで、長州藩は朝敵となり、孝明天皇は長州藩の征伐を幕府に命じます。長州藩はこれに恭順の意を示し、藩家老二名の首を差し出すことで納めました。これが第一次長州征伐です。

同元治元年、前年に長州から馬関において攻撃を受けた三か国にアメリカを加えた、4か国連合艦隊と長州藩との間で馬関戦争が行われ、長州藩は敗北を喫します。これにより攘夷の不可能性を身に染みて知った長州藩は方針を転換、幕府を倒して列強に対抗できる強い国家を作るべきだと考えるようになっていく。長州藩は桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らが藩の実権を握り、倒幕への道を突き進んでいく。

薩摩は薩摩で、文久2年の生麦事件を発端とした薩英戦争を文久3年に経験しており、海外列強の強さを肌で感じていました。この薩英戦争の頃から、薩摩藩は西郷隆盛や大久保利通が実権を掌握するようになり、藩の方針を公武合体から徐々に倒幕へとシフトさせていくことになるのです。

 

京都では公武合体論に基づき、有力諸侯による「参預会議」をおき、国政改革に努めようとしますが、国政の実権を握ろうとする薩摩藩国父・島津久光と一橋慶喜とが方針の違いを巡り対立。参預会議は1年ももたずにあっけなく分裂してしまう。

あとに残った一橋慶喜と松平容保、そして容保公の実の弟、桑名藩主で京都所司代の職務に就いていた松平定敬のこの3名が朝廷との結びつきを強め、幕府と朝廷との間を取り持ちながらも、幕府とはまた違った独自の政策を推し進めていくようになります。これを「一会桑(一橋、会津、桑名)体制」もしくは「一会桑政権」と呼びます。

この一会桑体制により、一橋慶喜は朝廷側により近く接近することなり、幕府とは疎遠になっていく。会津は朝廷と幕府と双方からの信頼が篤く、会津藩が朝廷と幕府とを取り持つパイプ役を担っていきます。

この体制の特徴は西南雄藩を排除し、徳川だけで政治を取り仕切ろうとしたところにあるようで、特に松平容保公はその傾向が強かったようです。後々会津が新政府の恨みを引き受けるかたちになるのは、池田屋事件とこの一会桑体制が大きく影響しているとみていいでしょう。

 

この一会桑体制に対抗するかたちで作られたのが「薩長同盟」だと言われています。一会桑体制は結果として討幕派の団結意識を高め、より熟成させていったという面があることは、否定できないと思われます。

 

時代は孝明天皇の望む方向とは、まったく逆の方向へと動いていきます。

 

つづく。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする