一橋慶喜公が第15代将軍に就任したのが、慶應2年12月5日のこと。しかしそのわずか20日後に、孝明天皇が崩御されてしまいます。一会桑体制はあくまでも孝明天皇あってこそのもの、天皇の崩御によって、一会桑は事実上消滅してしまいます。
その後の展開は御存じの通り。大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争......。旧体制は終焉を迎え、明治新政府による新たな体制が、日本を導いていく。
このように、孝明天皇の頑ななまでの「攘夷」と「佐幕」との御意志が、佐幕派と倒幕派と双方を刺激し、時代を動かしていった。孝明天皇でなければ、時代は動かず、明治維新も起きなかったとするのは言い過ぎでしょうか?
倒幕派にとっては孝明天皇の御存在が最大の障壁となっていたわけで、これが結果として倒幕派の団結を促し、より熟成させていったことは、否めない事実だと思う。孝明天皇の思うところとは真逆の方向に進んでいったけど、孝明天皇のお陰様で、明治維新は成ったといっていい。
やはり日本の歴史を動かすのは天皇です。日本の歴史は天皇の歴史だ。
色々と紆余曲折はあったけれど、結局は納まるべきところへ納まっていく。なんでしょう?この絶妙さ。まるで「何者」かの「意思」が働いているかのようだ。
日本は「不思議の国」です。
明治新政府とは、実は孝明天皇の御意思に反するかたちで成立した面があります。つまりは「違勅」の政権だともいえるわけで、これが知られるのは明治新政府にとっては非常に都合が悪い。
だから、孝明天皇の御事績は「封印」され、100年の間公開されませんでした。
明治新政府によって朝敵指定を受けた会津藩主・松平容保公は、「八月十八日の政変」の成功の後、孝明天皇より御宸翰(天皇直筆の書簡)を賜っており、これは孝明天皇の容保公への強い信頼を示すもので、容保公は朝敵などではないことの最大の証明です。これが世間に知られることもやはりマズい。明治政府は旧会津藩士の山川健次郎などに、この事実を公開しないでくれと、懇願したと伝えられています。
私は以前、「敗者の歴史」という視点から歴史を語ろうとしていました。その視点から見れば、明治政府のこのような行動は憤り以外の何者でもありませんでしょう。しかし今、私の視点は違うところにある。
結局、人間のやることです。正しいこと間違っていること、綺麗なこと汚いこと、両方あって人間だ。完璧なことなどこの世にはない。人間のやることに完璧はない。
佐幕派も倒幕派も、孝明帝も、みんな日本の将来に危機感を抱き、何とかしなければという思いからの行動だった。日本を思っての行動だったわけです。そこには基本、朝廷に盾突くなどという意思はなかった。結果として天皇の御意思に反することになっても、そこには「反天皇」の意識などなかった。
「朝敵」などどこにもいなかった。
私は今、「不思議の国ニッポン」にかつて起こった「奇跡」を
噛みしめたいと思っています。
日本は良い国だ。
新たな記事達を紡ぐ薫兄者は
前にも増して大人に成られ
沢山のことを昇華されたのだなぁ、、て思いました。
歴史は人が作るんです。当たり前ですけど、そこには人がいるんです。人はいいことも悪いことも、正しいことも間違っていることも、優れたことも愚かなことも両方するものです。どちらか一方だけなどありえない。良いことだけを伝えるのではなく、悪いことだけを批判するのでもない、その両方を知らなければ歴史にならないのですよ。当たり前のことです。両方を知ったからといって、それで日本に幻滅するほど、日本の歴史はやわなもんじゃありません、ちゃちなもんじゃありません。両方を知ったうえで、それでも日本の歴史、文化伝統は素晴らしい。日本人は素晴らしい。必ずそう思えます。
そう思うためには、通史を学んだ方が良いです。旧石器時代から縄文、弥生、神武天皇による建国の成り立ちから、現在に至るまでを通した、日本の歴史を知ること、日本人なのに日本の歴史、通史を知らないなんて、実はとても恥ずかしいことなんだということは、言っておきたいですね。通史を知ることで、日本人としての確たるアイデンティティが形成されます。日本が好きになります。これ日本人なら必須。
良いテキストがあります。竹田恒泰著、『天皇の国史』これいいですよ。これをまず読みましょう。細かいところはそのあとでもOK。
また宣伝してしまった(笑)
オススメ「天皇の国史」も、楽しみながら読める域まで行けたら良いなぁ!
孝明天皇の崩御された御姿、昭和天皇に想いをはせました。
今はとうに安らかであられますように。
今までもそしてこれからも、その大切な歴史を繋いでいくことに私たち今を生きる国民の任務ですよね。
薫兄者の温かくも広いお心に感謝申し上げます。
そうそう、私は家茂公が最近気になるんです、勝海舟が惚れ込んだ人物だったと言うことは、慶喜公が絵を描いた上洛だけど、幕府として朝廷へ行って、どう対応したのだろう。
勝海舟が海防関係に行く運命の流れで、堀田正陸の前の老中、阿部正弘が海防を強化して、そこに水戸の私の苦手な斉昭公に任せるとか、流れとしてすごい興味深いな、と。
私が茨城県にいるせいか、どうも元々水戸より北の出身の行政の人が苦手なんですよ。変な頭の硬さがあって。水戸が赤い方の気持ちになったのも御三家で尾張や紀州よりずっと格下の扱いを受けてたからで、慶喜くんへの育て方とか皇族の奥さんもらうとか、色々な鬱憤があったのだろうな。と。藩政改革はした偉人ではあるらしいのですが。
反対に容保公などは、潔いほど幕府や朝廷に誠実だったのだけど、代わりに藩政が大変なことになったり。断然容保公が好きなのはそんなところなんですよ。
水戸学関係の本も途中まで読んだのですが、どうも続かない(笑)産能攘夷思想の生まれた背景とか、深いところはまだまだわかってませんです、はい。
容保公はホントに気持ち良いです。盛岡藩家老の楢山佐渡もそう。こういう気持ち良くて潔い人たちが負けるかたちで明治維新はなった。でもそれは単純な善悪で判断できることじゃない。そこには深くて大きな流れがあるんだってことを思う。そう思うと、日本の歴史って深いなと思うし、日本という国を継続させてきたすべての先人たちが、愛おしく感じます。