新・眠らない医者の人生探求劇場・・・夢果たすまで

血液専門医・総合内科専門医の17年目医師が、日常生活や医療制度、趣味などに関して記載します。現在、コメント承認制です。

天野医師の自信:医師が患者さんに貢献できるという自信を失った時は引退するべき時なのでしょう

2012-06-28 19:45:30 | 医療

こんばんは

 

今日も結局いろいろ準備に時間をとられておりました。

それでも明日から出張と考えると仕方がないのですよね。本当は予定では今日からでしたしw

 

さて、本日は先日天皇陛下の手術を執刀された天野医師の話が載っていたので紹介します。

「神の手」と呼ばれて(上)心臓外科医・天野篤 自分ほど医師に向く者はいない

「神の手」「ゴッドハンド」と呼ばれるのは、医師冥利(みょうり)に尽きるだろう。しかし、学力や手先の器用さだけではこの域に達することはできない。自分自身を信じて患者のためには決して妥協しない不撓(ふとう)不屈の精神力が、大医や名医をつくる。(文・木村良一)

 ――狭心症の天皇陛下の冠状動脈バイパス手術、お疲れさまでした

 天野 はい。ただ(手術が成功し)ひとりの国民と天皇陛下という元の関係に戻りました。「天皇陛下の執刀医」という枕詞(まくらことば)は外す方向でいます。

 ――どうしてですか

 天野 天皇陛下の執刀医ということが独り歩きすると、僕や僕が関係する施設が利用することになる。それが良くないからです。

 ――それにしてもプレッシャーは大きかった?

 天野 診療面ではそんなに感じなかったけど、外科医として真の力量が問われるというプレッシャーはありました。

 ――なぜ医師になったのですか

 天野 父親のおじに当たる人が2人医者で、影響を受けた。高校2年のとき、父親が心臓弁膜症と診断されたことも大きかった。医学生の大学2年のとき、父親が三井記念病院(東京都)で手術を受けるのですが、それがどういう医者になるかを考えるきっかけになりました。心臓外科を志す前は僻地(へきち)医療に力を尽くしたいと思っていた

 《父親の甲子男(かしお)さんは心臓に人工弁を付けるなどの手術を3回行ったが、平成2年11月25日に術後心不全などで亡くなる。66歳だった。亀田総合病院で行った2回目の手術では自ら助手を務めた》

 ――3浪して日大医学部に入る

 天野 はい。どうしても医者になりたいという思いが強かった。自分ほど医者に向いている人間はいない。それなのになぜ、選ばれないのか。どうして学力だけで決めるんだ。気持ちの中でそう世の中の制度に文句をつけていた時期がありました

 ――なるほど

 天野 1浪、2浪の時点で複数の私立の新設医大の1次試験には合格していた。でも2次試験には受からない。合格するにはコネクションが必要だと分かり、門外漢は実力でしか門をくぐれないと腹をくくってもう1年いままで以上に勉強した。3浪の時点で、1浪、2浪のとき受験した国立1期校を捨て1期校と試験日が重なって合格しやすい日大医学部を選んだ。

 ――どんなところが医師に向いていますか

 天野 熱心で、ひとつのことを中途半端にしないところかな。だから手術は丁寧だし、患者さんとの関係も丁寧です。たとえば院内の薬局が薬の飲み方を誤って伝えてしまったときには、正しい飲み方を自分で直接電話して説明した。患者さんには「あなたのことは僕が一番よく知っている」というように接することが大事です。

 ――いまもそんなに親切なのですか

天野 若いころは未熟な部分を患者さんの信頼を得ることで補っていた。いまは手術の完成度が高いからある時点で医者と患者の関係を断ち切れる。それに他の病院で手術すると、アフターケアは他の医者に任せなければならない。患者さんとの関係が希薄になればなるほど手術の完成度を上げる必要が出てくる。それが患者さんへの誠意です。

 ――医学部の教授という地位はいかがですか

 天野 まさか教授になるとは思ってもいませんでした。僕が結婚した若いころ、父親のおじの息子が東大医学部の小児科の助教授で、その人が「3浪したから研究者として大学に残るのは難しい。臨床医として早く一人前になりなさい」と諭してくれた。民間病院で手術経験を積めたのはそのおかげです。

――「神の手(ゴッドハンド)を持つ医師」と呼ばれていますが

 天野 僕の場合、神の手というよりも「物差しの手」。手術は行き当たりばったりではなく、計った通りにやる。計算し尽くされた中で執刀している。

 ――それは手先の器用さにつながるのですか

 天野 つながります。少なくとも外科医の中で僕は器用だと思う

 ――以前、年配の高名な外科医から「器用さとはよく考えて物事を進めることだ」と教えられたことがあります

 天野 よく考える。それも器用さに入る。何かやっているときにそこだけを見るのではなく、裏側やその先を見る。目というのは目の前の物を見るだけではなく、いろいろな情報を取り入れられ、それを基にいろいろと考えられる。

 ――手術中も同じですか

 天野 執刀中こそ視力などの五感を最大限に生かします。五感から入った情報に対し、すぐに反応して自然に手が動く。だから通常の手術は疲れない。非常事態が起きたときは頭を使う。周囲がその事態に目がくぎ付けになっても、ひとつ頭を持ち上げて俯瞰(ふかん)し、もうひとりの緊急用の自分が、体に指令を出すようになっている。

――すごい

 天野 術中判断は経験と知識を総動員して3秒ぐらいで行う。患者さんのためには勇気を出して合併症と表裏の状況にも立ち向かわなければならない。妥協はしない。

 ――そこまでの域に達するには若いころから相当な体験をしているのでは

 天野 たとえば高校2年のとき、仲間と出かけた伊豆の大島で高波にさらわれたことがある。岩場で美術の宿題の絵を描いていました。そこに大きな波がザブンときて足をすくわれて海の中に落ちた。

 ――それで

 天野 落ちながら「波は必ず引く。引いたときに体を安全に支えられるものが見つかるはず」と考えた。ちょうど大きな岩があり、そこにしがみついて次の波がくるまでに呼吸を整えた。次に「大きな波は続かない。しがみついていれば、岩をよじ登れるチャンスがきっとあるはずだ」と考え、助かった。

 ――ピンチのときこそ、パニックにならずに落ち着いて考える

 天野 手術には三の矢はない。二の矢で仕留めなければならないからです

 ――二の矢で仕留める?

天野 1回目の手術が駄目なときは、2回目の手術で成功させなければならない。2回目の手術で救命できても、患者さんの予後(その先の人生)がつくれない場合がある。患者さんにどのくらい余力があるのか。助手や看護師の体力はどうか。道具立てに問題はないか。手術中もそれらを瞬時に把握し、より確実な次の治療計画を立てる。先の先を考えて手術していかなければならない

 ――たいへんです

 天野 すぐに再手術になるようでは、何のための手術か分からない。そこに対する責任感はどの外科医よりも強い。

 ――2ミリの血管を0・05ミリという細い糸で縫ったりするのでしょ。手術の練習はするのですか

 天野 しない。いままでやってきたことが「間違っている」とひらめき、それを確認するのに人工血管や布で試すことはある。(論説委員 木村良一)

 ――医師としての哲学は何でしょうか

 天野 与えられたものを最大限に生かすこと。それが患者さんのためになるし、仲間や自分自身のためにもなる

 ――上司に臆せずにものを言った結果、嫌われて病院を辞めざるを得なかったことがあると聞きましたが

 天野 14歳年上の部長の手術を「僕の方がうまくできる」と批判した。まだ30歳代で未熟で天狗(てんぐ)だった。ただそのとき初めて「自分には外科医に向いた器用さがある」と直感した。

 ――なるほど

 天野 その部長に「君と話すときは脳の10%を使えば十分」とまでいわれたけど、(負けずに実力をつけ)手術中に助言をしたらクビになった。尊敬していた人でしたが…。

 ――平成3年4月から新東京病院(千葉県松戸市)に勤務されていますが、これは後にバチスタ手術(心臓縮小手術)で一躍有名になる須磨久善先生に呼ばれるのですね

 天野 はい。当時、東京の三井記念病院のサテライト病院として新東京病院に心臓血管外科が開設され、須磨さんが僕より5歳年上で、初代部長でした。須磨さんはもう手術をしない。

 ――今後、何歳まで現役の心臓外科医として手術しますか

 天野 むかしは55歳が限界といわれましたが、医療器具が発達して外科医年齢が上がっている。これからはデジタル画像を手掛かりに手術するようになるかもしれないから限界も上がるでしょう。

 ――今後の目標は

 天野 いまやっている手術のレベルを高めたい。たとえば(人工心肺装置を使わず心臓を拍動させたまま行う)オフポンプ手術。日本が世界一で、冠状動脈手術の6割がこのオフポンプだけど、これをもっと高めたい。それと脇目も振らずに外科医になろうとする医者を育てたい。

 ――ライバルは

 天野 うーん。難しい。

 ――ブラックジャック?

 天野 違う。(漫画『メスよ輝け!!』の主人公の)当麻鉄彦。『孤高のメス』という小説や映画にもなったけど、当麻鉄彦が僕の新東京病院時代とかなりダブる。患者サイドに立って手術で患者とその家族を幸せにしようとするところがいい。ライバルというよりも外科医の理想像かな。(原作者で医師の)大鐘稔彦(おおがね・としひこ)先生にはお会いしたり、手紙を頂いたりしています。(

 

 ■あまの・あつし 今年2月18日に天皇陛下の心臓手術を執刀した。順天堂大医学部心臓血管外科教授。昭和30年10月18日生まれ。56歳。埼玉県立浦和高を卒業後、日大医学部に進む。亀田総合病院(千葉県)や新東京病院(同)などの民間病院で腕を磨き、年間平均400件もの心臓手術をこなす。

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すごく面白いと思ったので、全文引用してしまいました。産経新聞さん、すいません。

 

さて、僕が気にしたのは2つ

 

1つめは「医師としての自信」「患者さんのためになることができる」という絶対的な自信。これは多かれ少なかれ医師の誰もが持っていることだと思います。逆に全く「医師としての自信」も「患者さんのために力になれる」という強い思いもなかったらいやじゃないですか?

それが医師には必要であるということ。

 

2つ目にそれが無くなってくるころ・・・今までは55歳が限界だったとしても、今後は様々な技術でもっと年齢は高くなるのかもしれません。しかし、それでも限界はあると思います。

本来、上記2つがなくなったころには医師は引退するべきなのでしょう

 

それが何歳まで維持できるだろうか…ということです。

 

知識・経験を持ってアドバイザーになるならともかく、ある一定以上の年齢では自ら患者さんの診療をするのは難しいのではないかと思います。

そういう目でもう一度、医師の実数を考えてみたらどうだろうかと思ったりします。

 

恐らく現場の医師としての数はかなり減ってくるのではないかと思っています。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/06/kekka1-2-2.html

日本の医師のうち70歳以上は10%を占めます(10%って3万人近くですよね)。もちろん年齢が高いというのは、それだけで現場に出ることはできないとは言えないと思います。

ただ、実際に患者さんの診療をするという意味で「もっと若ければ・・・」と思うことがあるならば、最前線にはいられないだろうと思います

 

医学が日進月歩で進んでいく中で、過去の知識と経験で対応できるのであればともかく…新たな知識に対応しなくてはいけない状況で高齢者は不利です。

診療所の医師の20%以上が70歳以上というDataも上の厚労省のサイトに書かれていますが、70歳以上で病院勤務医として働くのは病院長などを除いては難しいのではないかと思っています

(病院長も難しいですがw)

そんなことを思いました。

いつも読んでいただいてありがとうございます。今後もよろしくお願いいたします。

http://blog.with2.net/link.php?602868

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それでは、また。

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2 コメント

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違う自信を持つ方が多いのはなぜ? (うさぎぃ)
2012-06-29 18:24:07
年配じゃなくても。
応急診療所で『喘息のステロイド吸入』させてる親の私を批判する方
(自宅で頓服とベネトリンとかして中発作治まらんかったのだから持論は良いから早く治療して下さい)
など、そういう違う方向に自信満々な方々を強制引退させて欲しい…
返信する
Unknown (アンフェタミン)
2012-07-04 21:23:48
>うさぎぃさん
こんばんは、コメントありがとうございます

ちょっと状況がわかりませんが、いろいろあると思います。
もしかするとステロイドは「気道の炎症を取る薬」であって、発作時は気管支拡張薬を使用するようにと言われたということなのでしょうか?

患者さんサイドからはともかく症状を取ってほしいというのは確かだと思います。状況がわからないのでこれ以上コメントができないのですが…

また、コメントいただければと存じます
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