お外はつまらにゃい!―ちゃめがうちに来た理由―(後篇)

 子猫たちもキャットフードを食べるようになって、家の裏口の戸を細く開けてやると、すきまから中を覗くようになった。
 土間のところでネズミを動かして誘ってみると、やっぱり茶トラが一番に家の中に入ってきた。戸のすきまからこわごわと見つめる兄弟たちを尻目に、茶トラは何を怖がることがあるかと、ネズミを捕まえたりスリッパを蹴っ飛ばしたり、やんちゃ放題に遊んでいる。
 なかなか誘いに乗ってこない縞ぶちや黒に対して、根気よくネズミを動かしていると、やはり狩猟本能なのか、彼らもとうとう我慢できなくなって飛び出しては来るのだけれど、ネズミを押さえつけたところではっと我に返り、しまったとばかり、あわててドアのうしろに逃げ込んでしまう。
 茶トラは、家の中に興味を持ちだして、自分から探検に入ってくるようになった。私の部屋までやってくるので、そこでまたネズミのおもちゃで遊んでやると、外のことなんかすっかり忘れて、夢中になって追いかける。そうしてしばらく遊んでいると、突然母が恋しくなるのか、もう帰るとばかりにゃあにゃあ鳴き出すのである。
 この、好奇心いっぱいで警戒心のまったくみられない茶トラの子猫は、いったい頭がいいのだろうか馬鹿なのだろうかとみんな首をひねったが、とにかく愉快な猫であるにはちがいない。茶トラを家猫にしようということになって、ある日を境に、家の中にやってきた茶トラの帰り道を閉ざしてしまった。
 最初のうちは、ときどき外を思い出しては、お外へ帰るのだとにゃあにゃあ言って、そのたびにネズミのおもちゃで気をそらせていたのだけれど、しばらくすると、外の世界も母親のことも忘れてしまったのか、外へ出たがらなくなった。
 母猫は、茶トラが家に通い始めた頃から、この子の餌場はここにしようと考えて、茶トラを置いてときどきどこかへ出かけるようになっており、そのうちに、ほかの兄弟たちを連れて姿を消した。
 好奇心のかたまりみたいな、やんちゃな茶トラの子猫の名前は、「ちゃめ」と決まった。茶色い目の色に、茶目っ気をかけたのである。いまでは、外へ通じる扉が大きく開いていても、ちゃめは決して出ようとはしない。ちゃめにとっては家の中のいろんなことや、人間相手の遊びのほうが、外の世界で送る日々より楽しいのである。(了)
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お外はつまらにゃい!―ちゃめがうちに来た理由―(中篇)

 母猫は依然、人になでられたりはしなかったけれど、子猫を家の庭に遊ばせているくらいだから、私たちに対して、ある程度の信用を置いているようだった。子猫と遊ぶ一方で、彼女とももっと親交を深めようと、私はチーズを取り出した。母猫はチーズに目がないのである。
 家の裏の階段に座って、まず少し下の段にチーズを置いてみた。母猫は、こちらの様子を伺いながら、大好物のチーズを食べる。負けん気で警戒心が強く、しっかり者の母猫だけれど、チーズが欲しくてたまらない顔をして階段の下に座っていて、なんともいじらしい。今度は私の足元すぐ近くにチーズを置いて、そ知らぬ顔をする。人間は怖いけれど、チーズは食べたい。母猫は私の顔をちらりちらりと見ながら、急いでチーズを取ろうとする。が、スライスチーズは地面にへばりついてなかなかとれない。チーズをはがそうとあせっている母猫の首のあたりを、そうっとなでてみる。猫は一度はぱっとあとずさるけれど、チーズの魅力には抗えなくて、また首を伸ばし、私は猫に触れる。そんなことを繰り返して、少しのあいだはなでていられるようになったけれど、結局それ以上は無理であった。(つづく)
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お外はつまらにゃい!―ちゃめがうちに来た理由―(前篇)

 6年くらい前、実家に一匹のサビ猫が来るようになった。眼光鋭い雌猫で、あまり人に馴れてはおらず、触ろうと手を伸ばすと爪を出す。気が強いらしく、外猫のちゃぷりと喧嘩になって、ちゃぷりは耳の端っこをぱっくり切り裂かれてしまった。
 サビ猫はしばらく外猫用のえさを食べに通っていたのだけれど、そのうち、家の誰かが、サビ猫のお腹が大きいことに気がついた。子猫が生まれたら問題である。捕まえて手術することもできないし、困ったなあ…と言っているうちに、サビ猫は、お産のために姿を隠した。
 しばらくして、サビ猫は三匹の子猫を連れてきた。茶トラ、縞ぶち、黒である。たいてい家の庭に遊んでいて、お母さんにくっついたり、兄弟三匹がひとかたまりになっていたり、それは可愛いので、生まれたら困るなんて言っていたことはすっかり忘れて、みんなしょっちゅう庭へ出て行っては、親子の様子を眺めていた。 子猫たちを馴らそうと思って、私は竿の先にネズミのおもちゃをぶら下げて、庭へ出て行った。リュウノヒゲの細長い葉のあいだをくぐらせるようにネズミを動かすと、つくばいの陰から、まず茶トラがたまらなくなって飛び出した。たよりない両腕をいっぱいにひろげてネズ公めがけて飛び掛り、猫パンチを繰り出しては後ろに飛び退る。
 茶トラの次に出てきたのは縞ぶちで、茶トラよりは慎重に、ネズミにちょっと手を出した。一番臆病なのは黒猫で、おそるおそる、物陰からでてくるのだけれど、いったんネズミを捕まえれば、ぎゅっとくわえこんで、ちょっとやそっとでは離さなかった。
 こんなふうに、私は子猫たちと遊びはじめたのである。(つづく)
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なごり雪

 お正月に母のくれた南天がながくもって、つい最近まで部屋にいろどりを添えていたが、さすがに、そろそろ見劣りがしてきた。外を歩けば、どこからとなく沈丁花が匂ってくる季節になったので、家の中の、冬の最後の名残ももう終わりかと思ったら、日曜には雪が降った。
 南天の赤い実に雪が白く降りかかるさまなど、しんしんとして好きなのであるが、今年は暖冬で、冬らしい景色も見られなかった。3月になって季節が戻って、今さら雪が降ったとしても、降り積もる南天の実はもうない。
 2月には春の陽気だったから、もうこのまま春になるものとばかり勝手に思いこんでいたぶん、いまさらの寒さが身に沁みる。来週こそは春が来るかと、週間天気予報を見てみるが、気温の欄に並んでいるのは、肩をすぼめたくなるような数字ばかり。足りなかった冬の寒さは振り替えてもらわなくても結構だから、はやく春をよこして欲しい。
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三年猫太郎

 三年間続けてきたことがあるか、と聞かれて、頭をひねって考えたけど、何一つ思い浮かばなかった。食事を取るとか、風呂に入るとかなら30年以上続けているが、そんなことは言ってもしょうがない。凝り性の飽き性で、なんでもかっと熱したあとは、すぐに冷めて飽きてしまう。たとえばある時は絵を描くことに凝って、一日に何枚もスケッチしたりするのだけれど、一ヶ月も描き続ければ、突然ぱったりやめてしまう。またある時は作文に凝って、なんやかんやと書くのだけれど、しばらくすると飽きてしまう。ジョギングとか体操の類も同じ。一週間ほどしか続かない。継続は力なり、というが、したがって、あまり「力」はない。
 継続したところで何の力にもならないけれど、猫が好きだということは、もう10年以上続いている。最初の頃は、それこそ猫にのぼせていて、「猫」の名のつく本なら手当たり次第に買ったりしていたが、そのとき買った本の中に、内田百の「ノラや」があった。いなくなってしまった猫への思いを切々と綴ったもので、これを読んで内田百に好意を持っていたのだけれど、そのあと読んだ随筆の中に、小鳥が好きで、飼って夢中になるのだけれど、しばらくすると飽きてしまって、結局死なせてしまうということが書いてあって、百に対しては少々がっかりした。
 猫本を買いあさるような過熱状態からは冷めたけれど、猫が好きなことには変わりがない。これだけは、これからもずっと飽きることはないと思うのである。
(トラックバック練習板:テーマ「三年間続けてきたことは何か」)
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猫に餞別(後篇)

 店には少し早めに着いてしまったので、私のほかにひとり来ているだけだったが、その人や店主と無駄話をしているうちに、ぽつりぽつり人が集まりだして、やがて全員がそろった。
 いつ猫グッズを渡そうかしらと窺っているうち、別の一人が、餞別を渡した。主賓がその包みを解いていると、渡したその人が「○○君のはないんだけど…」と言い、中から出てきたのは、猫のおもちゃであった。そこで私も、「ごめん、私も○○君のはない」と言って餞別を渡した。○○君は「誰の送別会かわからないなぁ」と苦笑いしていたが、人の好い彼は、猫への餞別を喜んでくれていたようであった。
 一緒に連れて行った息子が眠くなりだしたので、早々に引き上げてしまったのだけれど、あとで○○君がメールで、羽のおもちゃがとても猫に受けているということを書いて送ってくれた。もう寝るよと明かりを消した後まで、遊びたがるほどだそうだ。
 ちなみに、○○君の新居は、「猫歓迎」という羨ましいマンションである。大家さんが猫好きだそうで、洗面所には猫トイレを置くスペースがあって、猫が自由にトイレにいけるよう、小さな専用扉がついており、さらに部屋の壁には猫用のステップと、猫が歩ける細い道が作り付けられてあるらしい。最近ではペット可物件も増えてきたようだけど、「歓迎」まではなかなか聞かない。私が言う立場でもないけれど、よかったなあと思うのである。
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猫に餞別(前篇)

 知り合いが、猫と遠くへ旅立つことになった。
 彼の友人たちが、馴染みの店での送別会を企画して、私も呼んでもらえることになった。彼の猫とは、子猫の時分に多少なりとも係わり合いを持ったので、何か餞別の品を贈ることにして、ホームセンターのペット用品売り場へ行った。彼の猫の好みはよくわからないので、うちの猫の嗜好を参考に、何点か選んだ。
 まず、ウサギの毛でできたねずみのおもちゃ。みゆちゃんも大好きであるが、特に実家のちゃめは、あげると1時間ほどでぼろぼろにしてしまうほどの気に入りようである。それから、鳥の羽の束が竿の先についた猫じゃらし。羽の束についた糸を繰り出して伸ばせるタイプのもので、あまり遊び好きでないデビンちゃんも鳥の羽には反応するのから、きっと気に入るだろうと思って選んだ。デビンちゃんの猫じゃらしはピンク色に染められた羽だったのだが、噛み付いたりして遊んだために、唾液で染料が溶け出してしまったので、贈り物は天然の色のものにする。あとは、小さなまたたび棒と、おやつの鰹のスティックを買った。
 猫のあるじには、自分が読んで面白かった猫の本を買って贈ろうかと思っていたのだけれど、都合で本屋へ行く時間がとれず、堅苦しい間柄でもないから、私の読んだお下がりでもいいかしらと思って調べてみたら、汚れたり破れたりしていたので断念し、結局、猫の餞別だけを持って、送別会の会場へ向かった。(つづく)
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シビックはどこへ

 新車が来た。夫は納車の日を楽しみに待っていたので、その日の朝、起きて、夫に新車の夢でも見たかと冗談半分に尋ねてみたら、見ないと言った。
 私はといえば、新車の夢は見ないが、シビックの夢を見た。車の販売店の人が、下取りのシビックを持っていってしまう夢であった。家の前の通りを走り去っていくシビックのうしろ姿が、目覚めたあとも残っていた。
 約束の時間になって、新車が届けられた。無論、私も新しい車はうれしい。ぴかぴかの白いボディーにわくわくしているうちに納車の手続きは済んで、下取りに出されるシビックは、夢に見たのと同じように、道の向こうに小さくなっていった。別れはとてもあっけなくて、乾いていた。
 新しい車で、少し遠くまで出かけた。新車を走らせるのは楽しいけれど、時々、比較するようにシビックのことが思い出されて、今頃シビックはどうしているのだろうと考えると、シビックが可哀想な気がして、さびしいのである。
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脅す猫

 息子に添い寝して寝かしつけていると、時々みゆちゃんが邪魔をしに来る。息子が寝ている布団の、シーツの下に勢いつけてもぐり込んだり、添い寝している私の背中を蹴っ飛ばしたり。やっと寝ようとしている息子を起こされてはたまらないので、一方の手では息子の肩や背中の上でねんねのリズムをとりながら、もう片方の手で、シーツの下に侵入してくるみゆちゃんを阻止したり、機嫌をとろうとなでたりしている。みゆちゃんとしては、かまって欲しいので、いたずらをすることによって自分に注意を向けさせようとしているのだろうけれど、逆効果だ。息子を寝かしつけさえすれば、私もみゆちゃんをかまってあげられるのに、そこまではわからないのか、それとも別に思惑があるのか。
 といいながらも、実際息子が寝てしまうと、家事をしなければならなかったり、息抜きに自分の趣味をしたりと、なかなかみゆちゃんの相手まで手が回らない。遊んでくれとにゃあにゃあ言うみゆちゃんに、はいはいと適当に返事をしてやり過ごしていると、みゆちゃんは、最終手段に出る。寝ている息子の顔の近くに行って、シーツに突っ込むぞという構えを見せるのである。これは脅迫である。息子を起こされては、せっかくの自由時間がなくなってしまうので、みゆちゃん、わかったからちょっと待って、と大急ぎで紐や猫じゃらしを手にとって、相手の要求を呑むしかない。こちらの痛いところをよく知っているのである。しかも家事をしているときにはあまりこれはやらない。私が絵を描いたり字を書いたりして遊んでいるときに、脅迫の手段をとる。
 2、3年前にテレビで、NHKの「ご近所の底力」だったと思うが、室内飼いの猫のストレスを解消するのに、一日15分遊んであげればいいと言っていた。15分でじゅうぶんです、とアナウンサーは力説していたが、どういう計算で15分なのか、まさか猫ちゃん100匹に聞きました、というわけでもないだろうし、うちのみゆちゃんは、とてもそれだけでは満足しないように思われるのである。
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マトリョーシカ人形

 小さな、マトリョーシカ人形を持っている。
祖父が亡くなったときに、遺品の中からもらったものだ。その祖父は、誰かからお土産としてもらったらしい。
 はじめてマトリョーシカ人形を見たのは、小さい頃、風邪などひいて訪ねた小児科の医院である。待合室においてあるいろいろなおもちゃの中にあって、子供たちが遊び散らすために、いつもばらばらになって、上半身だけのだとか、中が空っぽなのだとかが、じゅうたんの上に転がっていた。
 私はこの小児病院のマトリョーシカ人形が好きであった。といっても、気に入っていたのは、入れ子構造の一番小さいものから3つ目くらいまでで、外側のほうの、あんまり大きな人形はちっともかわいくないのであった。大きな人形は、たいてい上半身だけとか下半身だけしかなくて、体の半分は、おそらくソファの下とか本立てのうしろなどに隠れているのだろうけれど、私は診察を待っている人のあいだに分け入っておもちゃを探すような子供ではなかったので、見つけることができなかった。
 小さい人形はかわいい。一番小さな赤い人形と、その外側の黄色いお姉さん人形、もうひとつお姉さんの、緑色の人形。その3つを、並べたり重ねたりして遊んだ。
 ある時、まだ患者の少ない早い時間に病院に行ったら、マトリョーシカ人形は、診察時間前に病院の人が片付けたそのままの状態でおかれていた。どこかへいっていた体の半分は取り戻されて、すべての人形が、本来あるべき入れ子構造をとっていた。散らばった人形ばかりを見ていた私の目には、それが、とても新鮮に感じられた。
 小児病院の待合室には、ほかにもおもちゃがあったはずだけれど、マトリョーシカ人形以外には、なにも記憶に残っていない。
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