猫と千夏とエトセトラ

ねこ絵描き岡田千夏のねこまんが、ねこイラスト、時々エッセイ

猫にだまされた男(後篇)

2007年03月30日 | 
 雨に濡れた鉄の梯子は足元が滑りやすい。夜もだいぶ遅くなっていたから、地下の教室の窓にはすでに明かりはなく、堀の中は暗かった。懐中電灯を持って来るのだった…最後の段を降りて、よく見えない地面に足を着けた。あっ、と思ったときにはもう遅い。ばしゃん。K君の足は、くるぶしの辺りまで水に沈んだ。地下の底にはすでに深さ10センチほどの水が溜まっていたのである。
 もういいやと開き直り、K君は水溜りの中を、傘を差してじゃぶじゃぶ猫を探して歩いて行った。夜の闇に目を凝らしながら、猫の声をたどって行った。
 やがて暗闇に目が慣れてきた頃、上のほうに動くものがあった。いた。猫である。猫はK君を見ると、鳴くのをやめて、エアコンの室外機の上からひょいと跳躍し、あっという間に地上へと出て姿を消した。一瞬、K君には、猫がにやりと笑ったように見えた。
 猫に故意があったかどうかは知らないけれど、結果的にK君は、哀調帯びた猫の声にだまされ惑わされて、夜の雨の中を、靴と靴下とズボンの裾を水浸しにして歩き回るはめになったわけである。K君は、雨の滴をしたたらせながら、もう笑うしか仕方がないような気持ちで、明るい研究室へ戻った。
 この話を聞いて、私も大笑いした。でもこれは、K君の早とちりとはいえ、ひとえに彼のやさしさから出た行動である。結局のところ、太郎はいい人にもらってもらったなぁと、改めて思わざるを得ない。

猫にだまされた男(前篇)

2007年03月29日 | 
 太郎の里親K君の話である。
 ある大雨の夜、K君は大学の4階にある研究室で、研究にいそしんでいた。かなりの強雨で、窓の外からはざあっという大きな雨音が間断なく聞こえてくる。その雨の音に混じって、K君は猫の声を聞いたような気がした。
 その頃大学には幾匹かの猫が住みついていた。1階の外廊下の壁際に、岩石やらバケツやらと並んでキャットフードの段ボール箱が置かれていたから、地学教室の誰かがえさをやっていたのだろう。その猫かもしれない。耳を澄ますと、この大雨の中、確かに猫が鳴いているのが聞こえた。
 大学の建物の周囲は、地下の教室にも太陽の光が入るよう、掘り下げられて幅2メートルくらいの空堀のようになっており、昼間、その中に猫がいるのを見た。もしかしたら、この大雨で帰り道が遮断され、地下から出られなくなっているのかもしれない。そう思えば、なんだか、にゃおん、にゃおんと助けを求めているようにも聞こえる。とにかく気になるので、K君は様子を見に、研究室のある4階から階下へと降りていった。
 外は緞帳が下りたような雨である。思ったとおり、猫の鳴き声は地下から聞こえていた。出られなくなっているのなら、助けなければならない。降りしきる雨の中、K君は蝙蝠傘を片手に、地下へ続く梯子を降りはじめた。(つづく)

猫メール届きました(後篇)

2007年03月28日 | 
 いまひとつには、太郎はマッサージをする猫なのである。私の周りには、マッサージをしてもらう猫はいるけれど、する猫はいない。寝るとき、太郎はK君に腕枕をしてもらって、二人は向かい合って寝るそうだが、横になってしばらくすると、太郎はK君の大胸筋のあたりをもみもみ揉んでくれるのである。そのマッサージが、疲れているときなどかなり気持ちがいいらしいけど、太郎がK君の疲れを癒すためにやっているのかどうかは不明である。太郎自身は興奮していて、真剣な目をして、ふがふが言いながら揉んでいる。その格好が可笑しいのだけど、笑うと揉むのをやめてしまうので、K君は笑いをじっとこらえながら、太郎にマッサージをしてもらっている。
 太郎のマッサージ話も楽しいけれど、K君と太郎が二人向かい合って寝ているということ自体が微笑ましくて、読んで頬が緩んでしまった。
 そしてメールの最後に、太郎の写真が三枚添付してあった。太郎が私の家にいたのは生まれて2、3ヶ月の頃だったので、私は子猫の頃の太郎しか知らない。目がくりくりとして、やんちゃな子猫であった。3年も経っているのだから当然ではあるけれど、写真の中には、落ち着いた大人の雄猫が写っていた。太郎は立派になった…苦労した里親探しの想い出とあいまって深い感慨を覚えながら、しばらく太郎の写真に見入っていた。

猫メール届きました(前篇)

2007年03月27日 | 
 3年くらい前に私が保護した子猫の里親になってくれたK君から、メールが届いた。子猫がK君にもらわれていったあとも、ちょくちょくその後の話は聞いていたのだけれど、行き違いがたび重なって、いままで太郎の写真を見せてもらうことができなかったのを、今回メールに添付して、近況を綴って送ってくれたのである。
 いわく、太郎はなかなか面白い猫で、K君と楽しく過ごしている。その面白いところの例をいくつか書いてくれているのだけれど、確かに面白い。私が知っているどの猫にもない性格である。
 ひとつには、太郎は風呂場の水滴を研究している。K君がお風呂からあがったあと、決まって浴室にとことこ歩いていって浴槽に腰を下ろし、底に溜まった水の動きを観察する。K君が話しかけようとも無視するほど熱心に、うつむき加減で、真剣な目をして、小さな水滴が集まって大きくなり、ゆっくりと流れていくさまを見つめている。水滴の研究は、睡眠を中断してまで行うというから、その情熱は相当である。K君自身、大学院で研究をしていた人だから、ご主人様を見習っているのかもしれない。(つづく)

座布団の上の猫

2007年03月26日 | 
 一歳の息子がソファの上からみゆちゃんの座布団を引っ張り下ろして床に置き、ステージか何かに見立てているのか、その上に立って体操をしはじめた。しばらくすると、どこからともなくみゆちゃんがやってきて、座布団にじゃれついて、息子の邪魔をしだした。息子はみゆちゃんを押しのけようとするが、みゆちゃんも自分の座布団だと思っているので、息子に抵抗する。私は、息子に「これはみゆちゃんの座布団なんだから」と言ったあとで、あれ、と思った。もともとは、みゆちゃんの座布団ではなく、私の座布団である。
 妊娠中、ピアノの椅子が硬く感じられたので、座布団を買って敷いた。座り心地を確かめたあと、ちょっとピアノから離れて戻ってきたら、もうその上にみゆちゃんが丸くなっていた。猫という生き物は、居心地のいい場所をすぐに見つけてしまう。
 初めの頃は、みゆちゃんがいないときには私が使って、私が使っていないときにはみゆちゃんが昼寝をしたりしていたのだけれど、それがいつのまにか、みゆちゃん専用になってしまっていた。
 ポール・ギャリコという人の書いた「猫語の教科書」という本がある。猫の言葉の教科書、という意味ではなくて、猫が猫の言葉で書いた教科書、という設定なのだが、その教えるところは、いかに人間の家庭を支配するかということである。この本によれば、一見、猫は人に飼われているように見えて、実は上手く人間をあやつって、人間の家を支配しているというところが本当らしい。ついつい、猫の言うなりになってしまう、という人は、思い当たる節があるだろう。我が家のみゆちゃんも、無邪気な寝顔を見せながら、思い通り、座布団を手に入れることに成功している。

猫トイレ考

2007年03月24日 | 
 犬にくらべて、猫のトイレの躾けはずっと苦労がない。どこどこで用を足せと口で言っても犬にはわからないから、叱ったりほめたりして躾けていかなければならないけれど、猫の場合、初めて家にやってきた子猫を、砂の入った箱の中にそっとおろして、ここにこんなものがありますよと教えてあげれば、たいていの猫は、用が足したくなったらそこへ行ってするようになる。これは、猫には砂地で用を足す習性があるからだけれど、この習性は生まれつきのものなのか、母猫に教えられるものなのか。
 用の足し方にもいろいろあって、よく砂を掘る猫や、掘らない猫、後始末をしない猫などさまざまである。
 たとえば実家のデビンちゃんは、執拗に掘る。なかなか納得のいく形にならないのか、そこらじゅうを掘り返すので、取り忘れていたおしっこの固まりはばらばらになり、埃は舞い上がり、角度が悪ければ砂が扇状になってじゅうたんの上に飛び散る。埃が飛ばないように、シリカゲルの砂を試してみたこともあるが、肉球のあいだにシリカゲルの粒を運んで部屋にばら撒くのでやめた。結局、試行錯誤の末、ヒノキの猫砂とおからサンドを1対1の割合で混ぜると、一番埃が立ちにくいという結論を得た。もちろん、フードのついた猫トイレを使っている。
 そのフードの入り口から体を外に突き出して、トイレの縁に足をかけて大便をするのが、トラ猫ネロとちゃめの共通のスタイルである。そしてどちらもうんちが済むと、トイレの外のじゅうたんをがりがりと一生懸命ひっかいているけれど、なんら覆いかぶさるものがあるはずもない。
 うちのみゆちゃんはというと、やはり用を足したあと、トイレの周りに置いてある砂の袋をかき込もうとしたりしている。
 トイレの仕方ひとつをとっても、さすが、猫は個性豊かである。

ネコとイタチ

2007年03月22日 | 
 その姿を確認することなしに、天井裏で騒いでいるのがネズミどもだと思っているけど、ときどき、どすんとか、めりめりとか、ネズミとは思えないような大きな音がする。家の外壁に、どこか中へ入れるところがあって、イタチとか、アオダイショウとか、ネズミの捕食動物が入ってくるのかもしれない。そのときの恐ろしい状況をネズミの目線で想像してみたら、天井裏のネズミたちが気の毒になってしまった。
 イタチといえば、京都の北のほうの、日本海の見える町に住んでいる伯母の家にイタチが忍び込んで、伯母の飼っている黒白猫と、けんかになったことがあるという話を聞いた。詳しくは聞かないけれど、猫ともみあいになったイタチが、いわゆる「イタチの最後っ屁」を放って逃走したらしい。イタチは、おならの臭いことで有名なスカンクと同じ仲間である。スカンクは、直接そのガスを浴びると失明の危険があるほどで、衣服についた匂いは4ヶ月は抜けないらしいが、さすがにそれほどまでではないにしても、イタチがおならを放って逃げた伯母の家のお座敷は、その後、数日に渡って、匂いが抜けなかったという。それをまともに受けた黒白猫の鼻は、いったい大丈夫だったのだろうかと心配である。
 子供の頃は、実家の周囲で、よく薄茶色のイタチが道を走って横切るのを見た。今では、その細長い姿もとんと見かけない。

ネコとネズミ

2007年03月20日 | 
 棲みついているのか、遊びに来るだけなのかわからないけれど、家の天井裏を、ときどき鼠が走り回る。今朝もまだ早い時間に、とっとことっとこ、たかたかたかと、まるで鼠の大運動会で、家の者はみな目が覚めてしまった。
 もっとも姿を見たことはない。押入れにしまっていたキャットフードが食い散らかされて、そばに黒い小さな円筒形の鼠の糞が落ちていたので、天井裏にいるのも鼠だと思っている。
 彼らがその存在をはじめてあらわにしたのは、この家に引っ越して3週間ほどたった夜、ちょうど、車にはねられて大怪我を負ったみゆちゃんを保護した晩で、箱の中でうずくまるみゆちゃんを、夫と二人、囲うようにして見守っているときであった。時刻はすでに夜中の1時を回っていたと思うけれど、突然、横の壁の中で、ばりばりばりっと言う音がして、その音の中心が、がりがりがりと左へ移動していった。夜更けに、ただでさえ、瀕死の子猫のことで神経が過敏になっていたから、心臓が止まるかと思うくらい吃驚した。
 それから、ときどき、天井裏などで物音がするようになって、最初の頃はそのたびにどきっとしたものだけれど、今ではすっかり馴れてしまい、ああ、また来たか、くらいにしか思わない。
 みゆちゃんはといえば、天井裏がとことこ、かさこそ言うたびに、きっと目を開いて、耳とヒゲのアンテナをフル稼働し、音のする一点を見つめている。猫のいる家で自由気まま、勝手に振舞うとはなんとも失礼な鼠どもで、みゆちゃんは悔しくてしょうがないだろうけれど、相手は天井裏なので、にゃんとも手の施しようがない。(つづく)

猫草とこきゅこきゅ

2007年03月19日 | 
 ときどきみゆちゃんは草を食べて吐き出すけれど、あまり毛づくろいに熱心なほうではないからか、出てくるのはくちゃくちゃになった葉先と胃液ばかりで、毛玉が含まれていることはない。実家のネロなんかは、威風堂々たる外見には似合わず神経質な猫なので、しょっちゅう体を舐めて、毛玉をためている。
 以前は、「猫ちゃんの元気草」という名前で売られている麦の種を買って、専用ケースで育てていたのだけれど、手入れの行き届いていない家の庭にはところどころに葉のしゅんと長い雑草が生えており、みゆちゃんはそれを好んで食べるので、ちかごろでは麦は蒔いていない。
 庭へ行っていたみゆちゃんが、家の中に駆け戻ってきたかと思うと、変な顔をして、こきゅっ、こきゅっと体を前方に波立たせはじめた。このこきゅこきゅは、草を吐き出す前触れで、こきゅこきゅから吐くまでのあいだには、わずかだけれど猶予があるから、あわててそこらにある新聞紙なんかをつかんで、みゆちゃんの顔の前に広げるのだけど、まさにというときになって、急にぷいと顔の向きを変えて、結局じゅうたんの上にやってしまう。どうせなら、家の外で吐いてきてくれればいいのに、なぜか部屋に入ってくるのである。
 みゆちゃんが好んで食べる庭の草は、いったい何の植物なのだろうと思っていたのだが、夏になって、その疑問は自然に解けた。尖った草のあいだから伸びてきたのは、エノコログサの穂だったのである。猫草になったり、猫じゃらしになったり、エノコログサは、まさに猫のための植物である。