猫と千夏とエトセトラ

ねこ絵描き岡田千夏のねこまんが、ねこイラスト、時々エッセイ

菜の花の咲く

2007年02月28日 | Weblog
 滋賀県守山市の琵琶湖湖畔に、菜の花のたくさん植えられた場所がある。まだ二月なのにまるで春の陽気だから、先日そこへ行ってきた。
 大きな空と大きな水の琵琶湖の浜は、こころが水の色にすぅーっと溶けるような、深呼吸がしたくなるようなところ。同じ大きな水でも、琵琶湖と海はやはり違う。どこまでも広く深さも知れない青い海は、ちょっと緊張感を伴ったような魅力があるけれど、琵琶湖は陸の中で閉じているから、安心していられる。
 その日は風も穏やかで、浜辺に座って、お弁当を広げた。青い湖面に、水鳥が羽ばたく。息子は、得意げに身の丈の何倍もある枯れた葦を頭上に掲げ、青空を背に遊んでいる。
 菜の花は、触れると弾けてしまいそうに満開だ。濃い黄色が、光を含んで眩しい。黄色い花の向こうには、琵琶湖を挟んで、対岸の比良山系が見えるので、その構図を切り取ろうと、アマチュアカメラマンたちが、それぞれ三脚を立てている。山には少しだけ残雪があった。
 春みたいな太陽を背に受けて、ただぼうっとしていられる場所だけれど、湖面を渡る風が少し吹き出したので、脱いでいたコートを羽織ってその日は帰った。

「みゆちゃんの首輪」その後

2007年02月27日 | 
 こないだどこかへいってしまったみゆちゃんの首輪が見つかった。みゆちゃんが見つけてきたのである。
 二階で遊んでいたみゆちゃんが降りてきて、居間に入れてとにゃあと鳴くのでドアを開けたら、廊下にちょこんと座ったその足元に、赤い首輪が置いてあった。二階の物置部屋でなくしたのだろうとだいたいわかっていたけれど、物置部屋はいろんなものがごちゃごちゃと置いてあるから、半分あきらめていたものを、みゆちゃんはいとも簡単に見つけてきたのである。やっぱり猫ってすごい。自分が落とした場所を覚えていたのだろうか。それなら、首輪のありかを知っていながら、どうして今まで黙っていたのと、ちょっと考えてしまいもするが、それは人間の都合である。
 ともあれ、もって来てくれたので、さっそくつけて、赤い首輪の、可愛い家猫に戻った。首輪をつけるあいだみゆちゃんはおとなしくして、まんざらでもないように見えたけれど、実際はどうだかわからない。首がかゆくても掻けないし、庭にやってきた小鳥を狙ってしのび足で歩いても、耳元でちりちり鳴ってばれてしまうし、猫にとって首輪はやっぱり邪魔ものなのではないか知らん。

最終猫返し

2007年02月26日 | 
 ときどき、みゆちゃんは脱走する。庭の木に登って、3メートル近くある囲いの塀を越えて、いってしまう。庭の木にはペットボトルで作った「猫返し」を付けているのだけれど、どうも出来が不十分で、何回かに一度は突破されてしまう。
 みゆちゃんがはじめて脱走したときには、戻ってくるか心配で、ご近所の人まで巻き込んで大騒ぎしたが、二回、三回と繰り返すうち、だんだんこちらも慣れてきて、しばらくしたら帰ってくるだろう(といっても、半強制的に連れ戻すのだけれど)、というような余裕が出てくる。
 で、また逃げてしまった。庭に姿が見えないので、塀にはしごをかけて登り、向こう側をのぞいてみると、隣家のトタン屋根が、我が家の塀のすぐそばまで伸びているその上で、ごろんごろんと転げている。たった今外へ出たばかりだから、呼んでもこちらの手の届かないところで塀の角に顔をこすりつけたりするだけで、戻ってくるはずがない。
 手の施しようがないから、みゆちゃんが帰ろうかなという気になるのをただ待つしかない。はしごのてっぺんで待ち続けるわけにも行かないので、いったん部屋に戻って、しばらくしてからまたはしごに登って様子を見に行く。姿が見えないときもあるけど、すぐにまたどこかから現れるので、あまり遠くへは行っていないようである。隣家のあたりをうろうろしている。
 すぐそこですりすりごろごろしているときもある。手をいっぱいに伸ばせば、その指先に顔や頭を擦りつけてくるけれど、それ以上手は伸びないから捕まえることはできない。帰る気がないうちは、絶対に捕まえられる範囲には入ってこないのである。ためしに、手を縮めておいでおいでをしてみたら、警戒して近づいてこなかった。こちらの手の可動域をちゃんと知っているのである。指の先が触っているのに捕まえることができず、歯がゆくて苛々するけれど、猫ってやっぱり賢いなあと、あらためて思ってしまう。
 そんなことを繰り返して、数時間もすると、ようやくみゆちゃんもそろそろ帰ろうかなという気になってくる。呼ぶと、しぶしぶといった体で、私の手が完全に届く範囲に入ってくるのである。そうして、半強制的に連れ戻す。
 家出したあとは、外の世界の冒険に疲れて、いつもぐっすり眠っている。その間に、私は庭の木にいらなくなった傘を開いて取り付けた。新しい猫返しである。何度目の正直かは忘れたけど、今度こそもう脱走はできないだろう。山茶花と百日紅がそれぞれ傘を差して、庭はますます奇妙な景観になってしまったけれど。

なべのあと

2007年02月23日 | Weblog
 鳥鍋とか、豆乳鍋とか、石狩鍋とか、どれも美味しいけれど、私が一番好きなのは、鍋のあとである。
 晩に家族で鍋をした次の日の昼、鍋の残りにうどんを入れて、卵を落として半熟に煮て食べる。これが美味しくてたまらない。いろんな素材のだしがうまく混ざり合って、ほっこりするような、心が温まるような味である。自分でちょっと料理したくらいではこの味は出せないから、食材の合わさった力というのはすごいなあと思う。
 もっとも、自分の好物が、ケーキとか、洋食とかから、こういう鍋の汁みたいなものに変わってきたということは、年をとったということかしらとも、ほんのりと思う。
(トラックバック練習板:テーマ「好きな鍋は」)

シビックちゃん

2007年02月22日 | Weblog
 新しい車に買い換えることになって、納車が一週間ほど先に迫ってきた。今乗っている12年型のシビックとは、もうすぐお別れなのである。
 シビックには、3年と3ヶ月乗った。中古で買ってきたのである。愛嬌のある顔と、後部の美しい曲線が気に入っていた。
 物にたいする愛着が、強いほうだと思う。シビックと別れるのが悲しい。
 シビックに乗って、いろんなところへ行った。シビックのおかげで、日々の生活がとても便利であった。あんまりシビックとの日々を思い出そうとすると、センチメンタルな気持ちになってしまうから、なるべく考えないようにしている。
 京都の南のほうには、もぎ取りセンターというところがあって、センターの敷地内には廃車になった車が無造作に並べられ、積み上げられ、そこを訪れた人は、動かなくなった車から自分の必要な部品だけを取っていくのである。何度かその前を通ったことがあるけれど、いずれはシビックもこんなところへ送られてしまうのかと想像すると、いつも心苦しくなった。
 まだそこまでは行かなくても、次にシビックに乗る人はどんな人だろうとか、可愛がってくれるだろうかとか考えると、やはり切なくなってしまうので、何も考えないように、ただ納車の日を待っている。

みゆちゃんの首輪

2007年02月21日 | 
 みゆちゃんの首輪がなくなった。みゆちゃんがもし外に出て迷子になった場合に備えて、電話番号を書いてつけていたものである。鈴のついた、赤い格子柄の首輪で、よく似合っていた。
 庭で遊んだあと、二階へ上がって戻ってきたら、なかった。
 猫本来の姿には、当然首輪などついていないけれど、長い間見慣れていた首輪が突然なくなると、人でいえば服を着ていないような、なんだか落ち着かない気分になる。
 首輪は少し引っ張ると外れるタイプのものだったので、おそらく何かに引っ掛けでもして外れたのだろう。庭か、あるいは、二階でみゆちゃんが入れるのは物置として使っている部屋だけなので、そのどちらかに落ちているはずである。
 先に庭を探した。赤い首輪だから、閑散とした狭い庭に落ちていればすぐに見つかるはずだけれど、見当たらなかった。
 だとすれば、物置部屋である。こちらはいろいろな物で氾濫しているから、探すとなると、相当覚悟がいる。ざっと見渡した限りでは、見当たらない。
 夫が新しい首輪を買おうと言った。しかし、探せば家の中にあるはずだから、数百円のことだけれど、もったいない。これを機に、物置部屋を整理するから、と言い張った。
 が、そのままである。首輪のないみゆちゃんの姿にも、もう見慣れてしまった。

ポピーの花束

2007年02月20日 | Weblog
 ポピーの花束を買った。
 生協の宅配サービスのカタログに載っていたので、野菜や果物と一緒に、注文した。
 商品が届く火曜日、楽しみに待っていたら、花束は、15本すべてが丸いつぼみの、地味な格好で届いた。目の無い奇妙な生き物みたいな、15個の毛深いつぼみを眺めて、ちゃんと開くのかしらと思い、大きな花瓶に無造作に放り込んだら、ポピーはみるみる、咲き始めた。花弁を包んでいた、毛むくじゃらの殻がぽとり、ぽとりとテーブルに落ちて、赤、白、ピンク、オレンジ、また白、ガラスの花瓶は満開になった。部屋が、華やかに、明るくなった。
 くしゃくしゃとした紙細工みたいな花びらに、くねくねと曲がった茎がおもしろい。気忙しく咲いてしまった花が散ってしまう前に、スケッチをしておこうと思って、花に顔を近づけ、細かいところなどを見ていたら、鼻に、すうっとポピーの香りが届いた。懐かしいような匂いがした。小学校の、校庭の花壇の匂いがした。

にせ猫ちぐら

2007年02月19日 | 
 一番上の伯母は猫好きである。家には白黒ぶちの猫がいるし、外の野良猫にもご飯をあげて、病気になれば獣医に連れて行ったりもする。
 その伯母が、読んで面白かったからと、岩合光昭の「きょうも、いいネコに出会えた」という猫の写真のいっぱい載った本を送ってくれた。
 この本によれば、岩合さんの自慢の猫グッズは、「猫ちぐら」だそうだ。「猫ちぐら」は以前に読んだ町田康の「猫にかまけて」という本にも出てきていて、私はそれまで「猫ちぐら」が何であるか知らなかったのだけれど、わらで編んだかまくら形の猫ハウスで、明治か、それ以前の昔からあるものだという。新潟県関川村の民芸品で、村のお年寄りたちが、農閑期に一週間から十日かけて、一つ一つ、編み上げて作る。「ちぐら」とは、地元の言葉で「ゆりかご」の意味だそうだ。夏は涼しく冬は暖かい快適な猫ハウス、インテリアにも最適、などというネットショッピングの宣伝文句を見ているうちに、私も欲しくなってしまった。
 みゆちゃんの冬の寝場所は、二つある。一つはソファの上の毛布をかけた座布団。だいたいいつもここで寝ている。隣に座った人が気を利かせて、丸くなったみゆちゃんの上に毛布を被せてあげるとなお快適だが、このみゆちゃんの座布団のおかげで、もともと二人がけのソファは、定員が一人になってしまっている。
 もう一つは、形は猫ちぐらみたいなかまくら形だけれど、素材は綿入れの布であるペットハウス。去年の冬にホームセンターで安く買ったもので、あまり趣味のいい柄ではない。入り口が少し大きすぎるので、保温のために、毛布で半分覆っている。その冬は、初めて子供部屋を与えられた子供みたいに、プライベートな空間を得たことに大喜びで、いつも入って寝ていたが、今年はあまり使っていない。たまにのそのそともぐりこんで、寝に行ったのかなと思ったら、入り口のすきまから、目だけ出してこっちを見ていたりする。
 もう一つ、これも前の年の冬に、みゆちゃんが寒くないようにと、内側に断熱材を貼り付けたダンボールハウスを、ピアノの椅子の下に置いているのだけれど、こちらはちっとも使ってくれず、今は息子のおもちゃのバスの車庫になっている。
 この断熱材を貼り付けたダンボールハウス、夏の間は必要ないと思って、二階の物置部屋の棚の上に上げておいたのだけれど、ある日、みゆちゃんの姿が見えないので呼んでみると、その箱の中から、ひょいと首を出した。南向きの物置部屋はただでさえ暑い。そこで脚をだらっと伸ばして、いかにも暑そうに寝ている。いったい何を考えているのだか、猫ってちょっとわからない。

2月14日は発疹と共に去りぬ

2007年02月16日 | Weblog
 2月14日がバレンタインデーだということは、一週間前までは、確実に覚えていた。
 愛だとか義理だとか言いながら、ようは、お菓子メーカーのチョコレート商戦じゃない、などとへそを曲げてみたりもするけれど、まあそれで景気が上向けばよし、それになにより、バレンタインデーをきっかけに夫婦円満となるならば、それを利用するに越したことはないと考えて、チョコレートはたいして好きでない夫に、何か別のプレゼントでもしようと思っていた矢先、息子が突発性発疹に罹った。
 高い熱が出たりで、とてもプレゼントを買いに行くことはできないし、発疹が出てからは、すこぶる機嫌が悪く、ぐずりっぱなし。発病から一週間ほどたって、だいぶくたびれてきた頃、夫が職場の人にもらったチョコレートを持って帰宅して、ああ、そういえば、今日はバレンタインデーか、と気づいた。
 そのチョコレートがおいしくておいしくて、あげる側のはずの人間だけれど、疲れも忘れて、とても幸せな気分でいただいた。チョコレートが大好きなのである。
 その次の日に、ようやく発疹もひいて、息子はすっかり元気になり、夫には、一日遅れで、チョコ代わりの日本酒を贈った。
(トラックバック練習板:テーマ「2月14日をどう過ごしたか」)