春猫便り

このイラストをポストカードに欲しいという、うれしいリクエストをいただきましたので、大きめの画像をアップしました。よかったら、ぜひお使いください。
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猫的視線

 誰も特技だなんて認めないかもしれないし、そういうのを特技というのかどうかもわからないけれど、私がひそかに誇っている「特技」は、猫的視線だ。
 猫は、よくそんなものを見つけたね、というような小さな昆虫や小動物を、草の陰や木の葉の裏にいとも簡単に見つけ、追いかけ、捕まえて遊ぶ。さすがに猫までとはいわないけれど、私はそういう昆虫や小動物の類を見つけるのが得意なのだ。道を歩いていると、頭の上に、小さなイモムシがぶら下がっている。建物の横の低い塀の上には、カナヘビが日向ぼっこをしている。公園の砂場の縁石の際には、アリが巣作りの真っ最中で、皆で協力し、せっせと小石を運び出しては捨てている。周りの通行人や、公園で遊ぶ親子の中に、そういった小さきものたちに気づいている様子はない。私がそれらを教えると、連れは、よくそんなの見つけるね、猫みたい、と言う。猫は私にとって崇拝する動物であるから、猫みたい、は最高の褒め言葉である。
 そういう、こまごました生き物を眺めることが好きであるから、この特技はありがたい。もっとも、猫的視線は私だけのものではなくて、ほかの人たちは、気づいていてもただ興味がないだけだという可能性も否定はできないけれど。
(トラックバック練習板:テーマ「履歴書に書けない特技は?」
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今度は風邪…

捻挫の次は、風邪をひいてしまいました…。
イラストみたいな重症ではないのですが、自分には珍しく食欲不振です。なので、今日もお休みします。
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ネコバリアフリー(2)「猫用ノッカー」

 裏口のドアを開けると、そのすぐ前に外猫ポチがじっと座っていた、というようなことがよくあった。だいたいいつも決まった時間にご飯をあげるのだけれど、はやめに欲しいときや、もっと食べたいときなど、そうやってドアの前で待っているのである。にゃあとかなんとか言えばいいのに、犬的な性格の強いポチは、律儀に黙って待っている。
 こちらがすぐ気づけばいいけれど、そううまくもいかない。寒い冬の夜など、かわいそうである。そこで父が外猫用のノッカーを、猫の身長に合わせてドアの下の方に取り付けた。木の棒と針金でできた、小鳥の止まり木のような形のものである。ちゃんと使ってくれるのかしらと思ったが、ポチは教えもしないのに、すぐにノッカーを活用するようになった。部屋にいると、こんこんこん、とノックする音が聞こえてくる。ドアを開けると、ポチがいる。
 ところが、同じ外猫のちゃぷりはノッカーを使わない。使えないのか、使いたくないのか、ノッカーが取り付けられた後も以前と変わらぬ方法で、ドアに飛びつき、上部のガラス部分の縁に前足の爪を引っ掛け、懸垂状態で数秒部屋の中を覗きこみ、すぐに自らの重さに耐え切れず、しゃーっと音を立ててずり落ちていく。
 ポチがこんこん、ちゃぷりがしゃーっ。
 しかし最近、ノッカーをつけたのは失敗だったなあ、と父は言う。なにしろポチは食いしん坊である。定時のご飯が終わったあとも、こんこん、こんこん、ご飯の催促。放っておくわけにもいかず、家の中にいる者は落ち着かない。
 今日もポチは、ドアの前に座り込んで、自分専用のノッカーを鳴らしていることだろう。
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捻挫

捻挫した足が痛いので、今日はエッセイお休みします(イラストはイメージです)。いつも来てくださっている方、「猫ノッカー」を見に来てくださった方、すみません。
(しかし、いつくじいたのか、記憶にないのですが…)
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ネコバリアフリー(1)「猫用自動ドア」

 何年か前に、猫ちゃんの喜ぶ家、というような住宅のコマーシャルがテレビで流れていた。「○○ちゃん、昨夜はどこで過ごしたの!」と問い詰めるお父さんを尻目に、天井の梁の上の猫専用通路を、猫がとことこ逃げていってしまう映像だったように思うが、私の実家も、もともとは普通の家であるけれど、猫おやじである父の細工で、猫にとってだいぶバリアフリーが進んでいる。
 たとえば部屋の扉。今のような季節は開け放っていることが多いけれど、夏や冬にはエアコンを入れて閉めるので、猫が部屋を出入りするたびに、人が立って開け閉めをしなければならない。そこで、猫が自分で扉を開けられるようにした。ドアノブの仕組みを理解できたとしても、猫の手の構造上、ノブを回すのはかなり困難であると思われるので、猫の前足の高さに、猫用の取っ手がついている。ドアは、カチンと閉まらないように細工してあるので、引く側から入るときは取っ手を使い、戻ってくるときにはドアを押せばいいようになっている。しかしこれだけでは、猫が開け放した扉をやはり人が閉めなければならない。猫は開けた扉を閉めるほど行儀が良くはない。そこでドアの天辺にバネをつけて、開いた扉が自動的にゆっくりと閉まるようにしてある。これで家の猫はみな、自由に部屋を出入りしている。また、ドアの蝶番側の隙間には猫が尻尾をはさまないようなガードもついている。
 ベランダへも自由に行けるよう、壁に猫が通れる大きさの穴を開けて、塩ビ板の扉がつけてある。猫は、この扉を頭で押し開けて、家の中とベランダとを行き来できる。この通路は、万一、人が留守のときに火災が起きた場合の避難経路も兼ねている。
(明日は、「外猫用ネコノッカー」についてです。)
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線香花火的生活

 ガッツポーズを決めてしまうほどうれしかったことは何か、と質問されても、近いところでは何も思い浮かんでこない。二十年もさかのぼって、小学校時代まで記憶をたどると、消防車と救急車を並べて描いた絵がどこかの賞に入選したとか、ないことはないけれど、だいたい、感情が鈍い方であるから、ガッツポーズなんてとったためしがない。なんだか味気のない人生みたいだけれど、別に不満もない。鈍いゆえに、不満もわき起こらないのかもしれないが、しかしガッツポーズはなくても、小さなうれしさなら毎日ある。飼い猫の寝顔が可愛かったり、幼い息子が何かしゃべったり、散歩していたら道の端でカナヘビが日向ぼっこしているのに出会ったり。これはこれで、なかなか幸せな人生なのだろうと思う。
(トラックバック練習板:テーマ「ガッツポーズが出るほどうれしかったことは?」)
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春の庭の猫とハチ

 春うららで、猫も庭遊びが気持ちいい。小さな虫たちも活発に動いているので、みゆちゃんはそういった虫たちの観察に忙しげである。少し首を傾けるように前こごみになって、草むらのあいだをじっと見つめている。何を見ているのかわからないけれど、ダイナミックな動きはないから、おそらくとても小さな虫だろうと思う。どんなに小さくても、みゆちゃんは無視せず、きちんと観察する。そしてときどき、前足がつつ、つんと出る。
 そうかと思えば、飛んでいる虫を追いかけ、捕まえようとジャンプして、両前足を合わせたりしている。たいていは空振りだけれど、生き生きと楽しそうである。春の日差しが白い毛に反射して、眩しく暖かい。
 ひとつ心配なのは、みゆちゃんがハチに刺されないかである。ハチが毒針を持っていることを知らないのか、ハチにも手を出そうとする。地を這う小さな虫や小バエなんかに比べると、ハチはずっと大きくスリリングで魅力的な獲物なのだろうけれど、こちらは見ていてひやひやする。
 実家のネロは、子猫のときハチに刺された。暴れん坊だったちびネロが、やけにしゅんとしておとなしいと思ったら、ハチに手を出して、右目の上を刺されたようであった。その頃のネロは相当なやんちゃ坊主で、家のものはみな手足に生傷が絶えず、ほとほと手を焼いていたので、これで少しは懲りただろうと思っていたのだが、落ち込んでいたのは二、三日だけ、すぐにまたもとの暴君に戻ってしまった。
 みゆちゃんには、身をもってハチの痛さを学習するというようなことはしないで欲しいので、無駄とわかっていながら、ハチは危ないよ、刺されるよ、と注意するのだけれど、もちろんこちらの言うことなんて聞くはずがない。それが、ハチが針を持つことを知っていながらも刺されない自信がある、猫の余裕だったらいいのだけれど。
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モウロク機種変更

 五年と半年のあいだ連れ添った携帯電話が、とうとう壊れてしまった。息子が机の上から落としてしまい、床に当たった衝撃で、電波をうまく受信することができなくなってしまったのである。もう五年も使っているから、だいぶガタが来ていて、ボタンが押しにくくなっていたり、ときどきフリーズしたり、アンテナが外れてしまったりしていたけれど、それでもちゃんと機能していた。が、さすがに電波が受信できなくなったとあっては、携帯電話として使用することはできない。愛着もあって、今まで機種変更することを渋り続けていたけれど、ついにやむを得ず、買い換えなければならなくなった。
 時代の先端に鈍感な性格であるから、携帯を持っていることが当たり前という世の中になってからも、たいして不自由も感じず携帯なしを通していたのだけれど、5年半前に携帯を使い始めてからというもの、すっかり必需品となってしまって、ないと不便でしょうがない。のみならず、もはや携帯ネットワークに組み込まれてしまっているから、不通のままでは、携帯で連絡を取ろうとしている人が困惑もする。
 そこですぐに販売店を訪れたのだけれど、プランの複雑さにまず面食らった。「○○割引」「△△割引」と何がなんだか、理解するのに一苦労である。ごちゃごちゃ言わずに、安くしてくれるならそれでいいのにと思う。プランに納得して、結局、使い古した機種とよく似た形の、薄っぺらいリモコンみたいな携帯に決めたはいいが、今度は、その新しい携帯電話に分厚い取り扱い説明書が付いて来る。まったく機種変更は一仕事だ。
 そんなこんなで、ブログの更新も遅れ気味の次第であります。
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王子動物園見物記

 神戸の王子動物園へ行ってきた。
「ぱんば、ぱんば」と舌足らずな言葉を口にしながら、息子がパンダのライブ映像をしょっちゅうネットで見たがるので、実物を見せに行ったのである。
 お昼過ぎに動物園に着いたのだけれど、春うららかな日曜日とあって、駐車場待ちの車の列はどこまでも続いている。この長蛇の列の最後に並んでみても、順番が回ってきたころには日が暮れるのではないかしらと思って困っていたら、幸い、近くの有料駐車場に空きができた。動物園の駐車場に列をつくって並んでいる人たちは、日が暮れたらどうするのだろうと思って見てみたら、どうやら、お母さんと子供たちが先に動物園に入り、お父さんだけが車に残って順番待ちをしているようである。普段から家族のために汗水たらして働いているお父さんではあるが、なぜか扱いは軽い。世の中のお父さんは大変である。
 一番にパンダ館へ行った。人垣のあいだから覗いてみると、果たしてパンダがいた。実物を見るのははじめてである。本物のパンダがすぐそこにいるというのは、ちょっと夢うつつのふわふわしたような感じである。本当に可愛い。可愛いけれど、立て札に「パンダが(柵のそばの)溝にいるときには、肩車などをして覗き込まないでください」という注意書きがしてあったので、凶暴な面もあるのかしらと意外であった。しかし、パンダのことを温厚な動物だと思うのは、あの、中に人が入った気ぐるみみたいな姿から人間が勝手に持つイメージであって、パンダにはパンダの都合があるだろう。ちょうど食事中で、両手に持った笹の葉っぱを、横着な腰のかけ方で座って、むしゃむしゃと食んでいた。
 よく行く地元の動物園にはいない動物たちがたくさんいた。はじめてみる動物たちを見つけるたびに、「あ、ナマケモノ!」「コアラ、コアラ!」と思わず声を上げて指差してしまう。肝心の息子はというと、パンダには喜んでいたようだけれど、どちらかと言うと、動物よりも併設の遊園地にある観覧車や飛行機の乗り物に興味津々。私の方が興奮気味の、王子動物園であった。
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