歩行猫用信号機

 ミニカーで遊ぶのが大好きな息子が、歩行者用の信号を作って欲しいというので、ボール紙にマジックで書いたり切ったりして作っているうちに、なんとなく思いつきました。(息子には人用のを作りましたけど。)

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春日

今朝母に電話してポチの容態を聞いてみたら、あれから持ち直して、いまは庭で暖かな日を浴びている、水も自分でしっかり飲んで、おしっこもたくさん出たということであった。昨日の晩実家から帰るときに撫でたポチの頭が、何となくひんやりしているように感じられたので、私はもうてっきり、次の朝まで持たないかもしれないと思ったのだけれど、うれしい誤算であった。
ひとまず、安心である。
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春のひとつの夜

 もう、ポチはだめなのだろうと思う。
 夕方実家へ行ったら、ポチが朝出て行ったきり戻って来なくて、近所を探し回っても見つからないというので、もしかしたら死に場所を探して姿を隠してしまったのかもしれないとみんなで心配していたのだが、幸い、日が暮れてあたりの輪郭が曖昧になりはじめた頃、近所の家のフェンスの向こうでうずくまっているのを発見して、家に連れて帰った。呼ぶとにゃあにゃあと何度も返事をして、撫でてやると頭をすり寄せてかすかに喉を鳴らしていたから、心細く思っていたのかもしれなかった。
 もともとよく食べる猫だったけれど、今年に入ったあたりから急に食が細くなって、体重もどんどん落ちていった。少しでも栄養を付けようと、メニューを換えてみたり、いろんな努力をしたけれど、ここ一週間ほどはもうほとんど何も食べなくなってしまった。医者にみせたけどどこが悪いということもわからない。ただ、比較的機嫌は悪くなさそうであるのが救いである。
 ポチの年齢は不詳だけれど、相当な高齢なのだと思う。猫というのは、あまり年齢が表にあらわれない動物だと思うのだが、ポチは6年ほど前に家にやってきた当時から、かなりのおじいさん猫であるように見えた。仮にそのときすでに15歳を越えていたとすると、いまは20歳以上であるということになる。そう思いたいという期待も混じっているけれど、きっと十分長生きして、もう寿命なのだと思う。
 いまは、毛布にくるまって、父と母に見守られているのだろうと思う。ちょっと怖い顔なのに甘えん坊で、父と散歩に行くのが好きだったり、いい猫だった。
 奇跡的に回復して元気になってくれたら、それほどうれしいことはないけれど、現実的に望めそうにない。悲しいけれど、いまはただ、苦しまないように、安らかに、眠るように逝ってくれたらということを思う。
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お母さんのお弁当

 家族でどこかへ出かけるときに、たまにだけれどお弁当を作る。市販のお弁当だと高カロリーなものが多いし、入っている野菜の量も少ないが、手作りだと野菜たっぷりのヘルシーなものができるうえに安上がりだし、お愛想でも家族に喜ばれる。
 いいことばかりだけど、お弁当を作ることになれていない自分にとっては、これがなかなか一仕事である。時間は掛かるし、入れるおかずのアイデアもあまりない。
 今になって思い返すと、中学、高校と毎日お弁当を作ってくれた母は大変だったろうと思う。いまさらのように、ありがたいと思う。
 一番印象に残っているお弁当は入学試験の日に作ってくれたお弁当で、包みを開けると、お弁当箱の上に二つに折った紙片が乗っていて、母からの短い励ましの手紙であった。胸がいっぱいになるような気がしたけれど、隣にいる友人に見られるのが恥ずかしいので、こっそりのぞき見るように読んで、そっとお弁当袋の底に仕舞った。
 そのときのお弁当の中身は忘れてしまったけれど、メモ書きを読んだときの気持ちは今も覚えている。
(トラックバック練習板:テーマ「お弁当」)

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秋野不矩展

 秋野不矩展を見てきた。
 今回京都国立近代美術館にこの生誕100周年を記念した回顧展が来るまで、私はこの女性日本画家のことをまったく知らなくて、リーフレットに載っている絵を見たときにはたいして惹かれることもなかったのだけれど、実際展覧会に行って見ると、実物は全然違った。リーフレットの小さな写真では、不矩の絵の、太陽を浴びた大地のような暖かさや、はるかに吹く風のような魅力はちっとも表現されていなかったのである。
 54歳のときに、インドのタゴール国際大学へ客員教授として赴任したことをきっかけに、不矩はインドに傾倒し、インドを描き続けた。今回の回顧展でもインドを描いた作品が多い。彼女のインドの絵は、彼の地の乾燥した大地を表すような、赤茶色や黄土色を基調としたものが多いのだけれど、その中で、突然、吸い込まれるような青い空が無限に広がっていたり、大胆な黒い色が深い陰影を印象づけたりする。特に、ガンジス川やインドの空、何気ない土壁の民家や、信仰深いインドの人々が大地に描いた宗教絵の文様などは、「インドの人々がはだしで土を踏むような気持ちで絵を描こう」という不矩の姿勢が、殊更感じられるような気がした。
 猫の絵も二枚あった。どちらも二匹の猫と花を描いたもので、大きな花の前で仲良く身を横たえる黒猫とサビ猫、もう片方は、寄り添って歩く黒猫とサビ猫。不矩の飼っていた猫なのだろうか。その二枚の絵葉書を買って帰った。


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パズルの誘惑

 息子がいま凝っているのがパズルで、20ピースとか30ピースくらいの幼児用のパズルを、ときどき猫に邪魔されながら、毎日組み立てて遊んでいる。
 母の話によると、私も同じくらいの頃にはやっぱりそういうパズルをしていたらしいけれど、もちろん、その頃の記憶はない。
 よく覚えているのは、小学生の頃に数日かかって組み立てた500ピースのパズルで、500ピースというのはそのときの自分にとってチャレンジングな数字だったから、それなりの気負いがあった。潔癖なところのある子供で、自分でやり遂げるといったら、1ピースさえ他の人の手でなされるのが嫌であった。そのくせ、内弁慶で家の者には絶対に手を出してくれるなと言っていたけれど、本来あまり気は強くないから、家に遊びに来た友達が、興味本位で一つ二つのピースを仕上げていくのを制止することは出来ないのである。彼女らが帰ってしまってから、友達が組み立てたあたり周辺をもう一度壊してばらばらにして、他のピースと混ぜてから、組み立てなおした。
 絵柄はその頃好きだった、ディズニー映画「わんわん物語」の一場面で、絵本で何度も見た絵だけれど、拡大されたパズルで見ると、夜の街路を照らす街灯の黄色い光は、絵の具を散らしたような細かい点々で表されていたりするのが新鮮であった。
 余談であるが、日本では、完成したジグソーパズルを額などに入れて飾る人が多いらしいけれど、ジグソーパズル発祥の地といわれるイギリスをはじめ欧米では、繰り返し組み立てて遊ぶのが一般的であるらしい。どちらかというと私は欧米派で、一度組み立ててしまったパズルで再び遊ぶことはなかったけれど、のりを塗ってピースを固めて遊べなくしてしまうというのは、なんとも解せないような気がした。
 パズル売り場で子供用のパズルを選んでいるときなど、ふと、隣に陳列された難解なパズルに挑戦してみたいような誘惑に駆られることがあるけれど、やりはじめたら、おそらくいろんなことがそっちのけになってしまうだろうから、手を出さないようにしている。


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メジロの挨拶

 庭のほうから、きれいな鳥のさえずりが聞こえてきたので、小鳥を驚かさないようそうっと見に行ってみたが、ちょうど飛び立ったところで、木の梢を横切った鳥の影しか見えなかった。
 庭の木にみかんを置いておくのをやめてしばらく経った頃、庭に出たら、ちょうど頭の真上の木の枝に、メジロが止まっていた。あっと思って見上げると、メジロは枝の先から庭を囲っている塀の上へぱっと飛び移り、こちらへ向きを変えると、そこから、白い縁取りをしたひょうきんな目で、じっと私の顔を見下ろした。
 あまりこちらを見つめるので、何かを訴えているのではないかしらというような気になって、そうか、最近みかんがないけれど、もっと欲しいのだという意味かもしれないと愚考した。
 さっそくまたみかんを木に刺しておいたら、果たして、メジロがつがいでやってきた。やっぱりみかんが欲しかったのだと一人納得していたのだけれど、飛んできたのはその一度だけで、もう姿を現すことはなかった。自分が訴えたことを私が取り違えてしまったので、メジロが気を使って夫婦で一度だけ来てくれたのかも知れなかった。
 それ以来、もうメジロもヒヨドリも来ない。だれも食べてくれる鳥がいないから、かごの中に残った最後のひとつのみかんは、すっかり干からびてしまった。


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猫の喫茶店

 昔勤めていた職場の近くに、猫のいる喫茶店があった。レジカウンターの台の上の、浅いかごの中に二匹のアメリカンショートヘアーが団子のようになって眠っていて、時折、しなやかに床の上に降り立って背中を丸めて伸びをし、猫好きな客に頭をなでられたりしていたが、ランチがたいして美味しくなかったのと、猫もマスターも愛想が悪かったから、私は一度行ったきりで、行くのをやめてしまった。
 そこは普通の喫茶店にただ猫がいるというものだったが、最近は「猫カフェ」というお金を払って猫と遊ぶスペースが流行っているらしい。
 猫ブームで「にわか猫好き」になった人たちが、猫カフェで猫と遊んで本当の猫好きになってくれたら大いに結構であるが、いったい猫カフェにはどんな猫がいるのだろうと思って何軒かホームページを覗いてみたら、予想していなくはなかったけれど、やはり血統書のついていそうな猫ばっかりでがっかりした。動物愛護センターやアニマルシェルターから引き取った猫を置いてくれていたら、それで何匹かの命が救われたのに、と思う。
 経営者の立場からすれば、アメリカンカールとかブリティッシュなんとかとか、そういう珍しいような、高い猫でないと客が集まらないということなのかもしれないが、「針金犬」とか「崖っぷち犬」とかに全国から里親希望者が来るくらいだから、「シェルターから来た不幸な猫にあなたの愛情を」というような文句で宣伝したら、それなりにお客は来るのじゃないかしら思うのだけど、どうだろう。少なくとも、猫の魅力という点で、シェルターの猫が血統書猫に劣ることはないと、私は断言できるのだが。


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猫の面目

 外でカラスの鳴き声がしたので窓の外を見たら、家の前に出してある収集前のごみ袋が少し突付かれた。しばらくしてまた来たから、窓のこっち側でちょっと手を動かすと、驚いて飛んでいった。まったくカラスは周りをよく見ている。
 そういえばみゆちゃんはどこかしらと思って探すと、先ほどからずっと玄関の土間に座って、扉についたガラス窓から、ごみを漁るカラスの様子を一部始終うかがっていたらしい。
 実家の外猫用のえさを食べに来たカラスをネロは一睨みで追い払ったけれど、みゆちゃんだったらカラスになめられそうで心もとない、ということを以前に書いたが、やっぱりその通りであったらしい。
 カラスに相手にされなくて猫のプライドが傷ついたのか、また来たら今度こそぎゃふんと言わせてやろうと頑張っていたのか、みゆちゃんは、いつになく長いあいだ、玄関から表を眺めていた。
(漱石先生の猫もカラスにはしてやられてたんだから、あんまり気にすることないよ、みゆちゃん)


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猫もハッピー、人もハッピー(「作業所のねこ&ノラねこ展」)

 電車を乗り継いで、上本町のギャラリーへ猫の写真展を見に行ってきた。ペット自慢みたいな猫の写真展だったら、わざわざそんなに遠くまで足を運んで見に行かないのだけれど、この上本町の写真展は、「作業所のねこ&ノラねこ展」、精神障害者の授産施設ブルー・ムーンで飼われている猫(とその近辺の野良猫)の写真展である。
 今まで、大学や植物園などの施設が「野良猫に餌をやるな」といった猫への拒絶姿勢を取るのを何度も目の当たりにしてきた。だから、この授産施設が猫たちを受け入れたということがとても新鮮に感じられたし、その結果、アニマルセラピーのように、通所者の人たちにとってもおそらくよい効果が現れたのではないかと思って、ぜひ見てみたいと出かけていった。
 施設のスタッフの人たちが撮ったという猫たちの写真は、どれものびのびとした自然体で、猫たちがたくさんの愛情をもらって、自由に暮らしているということが感じられるようであった。通所メンバーの人だろうか、しっかりと猫を抱きしめるうしろ姿に、その腕の隙間から覗いた、ふてぶてしそうな、それでいてまんざらでもなさそうな猫の顔。
 猫が来て何か変わりましたかとスタッフの人にたずねてみたら、通所するメンバーの人々が明るくなったという答えが返ってきた。猫がいることで、場の雰囲気が和む。いたずら好きな猫たちだから、猫のために仕事が増えることもあるけれど、そこにはいつも笑いが起こる。
 拾われた猫たちは幸せになれるし、通所者の人たちにとってもプラスになる。ブルー・ムーンのような人と猫との関係を築く施設がこれからもっと増えることを願っている。この写真展は、その希望のように思った。
 (ブルー・ムーンは、NPO法人みのりコミュニオンが運営する、精神障害者小規模通所授産施設。そのシンボルマークも、「月に跳躍する猫」です)

写真展の、読売新聞の記事


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