腕時計のこと

 はじめて買ってもらった腕時計は、両腕が長針短針になったミッキーマウスの時計だったということを先週書いた。その次か、次の次に買ってもらったのは、カシオのデジタルの腕時計である。
 小学校5年生のときに、学年全体で、「岬の家」というところで合宿する行事があった。普段の学校では生徒は腕時計をしてきてはいけないのだけれど、この「岬の家」の合宿には腕時計をつけてきてもよいことになっていた。普段いけないものがよいとあって、また、腕時計をすることでちょっとばかり背伸びしたような気持ちになれることもあって、ほとんどの子が腕時計をしてきていたと思う。私もつけて行ったけれど、どんな腕時計をしていたかは忘れた。ミッキーの時計だったかもしれない。
 そのときに、男の子たちのあいだではやっていたのが、ストップウォッチ機能なんかがついた防水のデジタル時計で、同じ班の男の子たちもそれぞれ自分の時計を見せ合い、これみよがしに、ボタンを押してストップウォッチに切り替え、飯ごうで米を炊く時間を計ったりした。
 わたしはすっかりその腕時計が欲しくなった。「岬の家」から帰ると、父にねだって、黒いベルトのデジタル腕時計をとうとう買ってもらった。ボタンを一度押すと日付表示に、もう一度押すとストップウォッチに変わる。10気圧防水。たいして高いものでもなかったけれど、嬉しくて、家の中でもいつもつけていた。
 その時計を買ってもらってから間もなく、私たち家族と父の友人の家族とで旅行にでかけることになった。もちろん、腕時計をつけていく。どこか山あいのテニスコートの駐車場について、同じ時計を買ってもらった弟と二人、いろんな機能を試しながら楽しく遊んでいたら、一緒に来ていた一つ上の男の子が、「僕はそんな安物はしない」とすました顔で言うと、重量感のある金属ベルトのついた腕時計をさりげなく見せるような動作でテニスラケットを取って、さっさとコートのほうへ行ってしまった。
 黒いゴムのベルトの腕時計をした私と弟はふたり、駐車場の白樺の木陰にしんと残された。
 中学生に入って、茶色い皮ベルトの、合皮だったかもしれないが、アナログの腕時計をあたらしく買ってもらった。そのあとはどんな時計をつけていたか、もう忘れた。最近では、外で仕事をしているわけでもなく、腕時計をつけることはほとんどなくなった。
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高瀬川舟まつり

 23日に、木屋町二条、高瀬川の一之船入あたりで、「高瀬川 舟まつり」があったので、行ってみた。高瀬川保勝会の人たちが行っているもので、今年で20回目だという。
 行ったとは言っても、うっかり開催の日を勘違いしていて、夕刻、気がついて出かけていった頃には、もうお祭りは終わりで、祇園から来ていた舞妓さんたちはちょうど帰るところだったし、イベントもすべて終わり、保勝会の人たちも着ていたはっぴを脱いで、テントを片付けにかかっていた。
 ただ、高瀬舟には乗ることが出来た。年に一度、高瀬舟に乗れるとあって、子供たちは舟に上ったり、川に降りて水遊びを楽しんだりしている。何かを捕まえて、ビニール袋に水と一緒にいれている子もいた。
 保勝会の人たちが復元したという高瀬舟は、乗ってみると意外に広い。何年か前に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでからというもの、坂本竜馬のファンである。かつて、竜馬も、このような舟に乗って、京から大阪へと行き来したのだと思うと、なんとも感慨深かった。
 「竜馬がゆく」は文庫本8冊からなる大長編で、通勤の電車の中で、毎日読み耽った。大器晩成型の人である。物語の中で、黒船が現れたときにはじめて桂小五郎(後の木戸孝允)と出会い、「やろう」と意気投合するのだけれど、そのときの竜馬はいったいなにをやるのかいまいちよくわからない。その竜馬が成長し、歴史を動かす大人物になっていく。その人柄は愛すべき点がいっぱいで、本を開けば、すぐに竜馬がとても近い存在のように思われた。ずっと読み続けて、文庫本の8巻目に差し掛かるあたりでは、竜馬の最後を史実として知っている分よけいに、もうこれで竜馬ともお別れかとさびしくてならなかった。ただ、「竜馬がゆく」の最後は、悲壮な雰囲気ではなく、どこかしら爽やかな風が吹くような感じで締めくくられていた。やはり司馬遼太郎はうまいと思った。
 夕暮れの高瀬舟、川を渡る涼風を受けながら、竜馬の昔を思ってみた。
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中秋の名月

 昨日の中秋節の夜は、しばらく曇りがちだったけれど、やがて雲が千切れて吹き流されていって、雲の海から浮き上がるように白い月が出た。
 月夜は、晴れ渡った空よりも、千切ったような雲がいくらか流れている方が好きである。雲の上の部分が月明かりに照らされて薄く光っているところや、月の前を横切った雲が透けて見えるところなどが好きである。
 学校の古典の時間に習った和歌の中に、流れていく雲の合間に見える月の光を詠んだものがあって、その透明で清らかな世界がとても印象的で、その頃の手帳に書き写しておいたのだけれど、今ではもう忘れてしまった。
 中秋の名月というものを、今まで意識して見たことは数えるほどしかないけれど、その中で、もっとも印象的だったのは、二十代のはじめに、京都国立近代美術館の建物の中から見た月である。その日は金曜日で、美術館では毎週金曜日だけ、普段は5時に閉めるところを、7時か、8時頃まで開けている。日が暮れる頃に美術館に入って、そのときにやっていた小牧源太郎展を見た。民俗信仰、土俗信仰のモチーフが増殖していくような、シューレアリスム的な絵画の数々に気おされてそのフロアを出ると、吹き抜けになった階段の全面ガラス張りの向こうに、東山から上ったばかりの巨大な月があった。異常なほど大きく、また明るかったので、しばらくは目が離せなかった。特別な月に見えた。シューレアリスムの刺激を受けたところだったからかもしれない。
 「月、雲」という言葉を頼りに、昔手帳に写していた和歌を探してみた。新古今集に収録されている、左京太夫顕輔という人の歌で、「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の かげのさやけさ」であった。いま見ても、やっぱりきれいな歌だと思う。
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猫、活動再開する

 雨が降って、ようやく、秋がゆっくりとやって来た。
 夏のあいだは寝ていることが多かったみゆちゃんも、活動再開である。これまでは朝起きても、すぐ二階の部屋へ二度寝しに戻ってしまっていたけれど、今朝は、涼しい空気にすっきりとした身のこなしで、挑発的にタタンと軽くステップを踏むと、乗っていたクッションを後足で蹴って駆け出した。すなわち、「遊ぼう」である。
 お気に入りのひもを出してきてゆらゆらさせると、間髪入れず飛びついてきた。ひもを引きずって追いかけさせたり、高く跳ね上げてジャンプさせたりして、しばらく遊んでやった。
 私とひも遊びをしたあと、もうじゅうぶんかと思ったら、まだおさまらず、今度は息子が遊んでいたピンポン玉を転がして、あちこち追いかけはじめた。
 それからまたしばらく私とひもで遊び、さらにそのあと、どこから拾ってきたのか、金色のビニタイを床の上で滑らせて遊んでいた。夏のあいだ、暑くて遊べなかったのを、一度に遊んでいるみたいである。
 息子がだいぶ一人遊びできるようになったので、私も以前よりはみゆちゃんの相手をしてあげられるようになった。が、それでも1時間も遊んでいない。前に読んだ町田康の「猫にかまけて」という本の中で、町田さんは、やんちゃで遊び好きなナナという子猫が遊んで欲しいとせがむのに対し、「忙しいので、4時間くらいしか遊んでやれない」と書いていて、私は感服した。息子が生まれる前には結構みゆちゃんの相手になってあげていたけれど、とても4時間には及ばなかったと思う。
 ともあれ、夏のあいだみゆちゃんの睡眠時間が増えているのを見て、まだ3歳だけれど、年のせいかしらと少し思っていたから、遊び好きなみゆちゃんに戻ったことは嬉しいことである。
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ねこ公園

本当の公園猫は、滑り台などはせずに、どこか心地よいところでうたたねをしていますが。
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京野菜の八百猫

京野菜を食べて、ほっこりしよう!
(トラックバック練習板:「あなたの地元の『地の物』は?」)
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時計屋の親父

 近所の小さな時計屋の前を通ったとき、横を歩いていた夫が、子供のときにはじめて腕時計を買ってもらったのは、こういう趣の個人商店で、ミッキーマウスの両腕が長針と短針になっているのを買ってもらったと言った。それを聞いて思い出したのだけど、私自身も、両腕が針になったミッキーマウスの時計を昔持っていた。バンドが、黄色と茶色の縦縞だったと言ったら、夫もそうだと言って、たまたまなのか、その頃そういうのが流行っていたのか、どうやら同じものらしかった。
 その時計屋は、ほとんど店というよりも個人の家という感じで、いつの時代のものかわからない時計を数点展示した小さなショーウインドウはくすんで、店主の趣味らしい植木鉢の並んだ棚の方が、ずっと幅を利かせていた。
 一度、夫の腕時計の電池が切れたので、電池の交換をしてもらいにその店に入ったことがある。入ったところの右半分が物の置かれて狭くなった土間、左半分が畳の仕事場で、そこはもっと物が散らかっていて、足の踏み場もないようだった。店の奥から腹巻を巻いた無愛想な顔の主人が出てきて、私が電池交換をしてほしいと言うと、畳の上に散らかった雑多なものをよけながら、無言で仕事場の真ん中あたりに進み、ちょうど、人ひとりが座る分だけ空いた空間に、はだしの足を出してどかりとあぐらをかいた。そして、やはり無愛想な顔で、腕時計を受け取ると、こちらに背中を向けて、黙って時計の蓋を開けにかかった。
 私は手持ち無沙汰で、そこいらに散らばっている物を見ていた。工具や、時計の部品みたいなもの、筆記具、メモ帳、灰皿、タバコ、そんなものがあった。
 電池交換が済んだので、無愛想な店主に千円札を渡し、腕時計を受け取って、店の外に出た。通りが、白いくらい明るかった。
 最近になって、また同じ腕時計の電池が切れた。なんとなく前の店へは行く気がしなくて、少し離れた、大きな店構えの宝飾店へ行った。明るい店内にいたおばさんが、愛想良くこちらを振り向いた。
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黄昏の蜂たち

 もう九月も下旬に入ったというのに、毎日真夏のような暑さである。気象予報によれば、この暑さは今週いっぱい続くらしい。
 なんとなく不思議に思うのは、暑さが続いているのにもかかわらず、庭に巣を作っているアシナガバチたちの動きが、静かになっていることである。夏のあいだにはしょっちゅう庭を飛びまわっていて、洗濯物を干そうと外へ出たときに、危うく鉢合わせになりそうになったこともしばしばであった。近ごろでは飛ぶ姿もめったに見かけないから、もういないのかしらと思って、人目につかないよううまく物陰に作られた巣をそっとのぞいてみると、やっぱりハチたちはそこにいて、何か作業をしていた。
 ハチの活動期間というのは、気温の変化には関係なく、独自の暦のもとに決まっているのかしらと思って、ネットで調べてみたら、八月の終わりには、新しい女王バチが誕生して、その巣は営巣活動が終了するのだそうである。
 したがって、もうせっせと餌となる虫を狩って、幼虫を育てる必要もない。新女王バチ以外はみな、冬を越さずに死に絶えてしまうから、いま庭の巣にいるハチたちは、役目を終えて、ただ静かに、黄昏のときを過ごしているのかもしれない。
 庭のほうから、とん、とん、とん、という少し不規則なノックのような音が聞こえてきたので、なんだろうと不審に思って見てみたら、ヒヨドリが、捕まえたハチをトタン屋根に打ちつけているのだった。何度も何度も叩きつけ、ハチがもう動かなくなった頃、私の気配を感じたのか、ハチをくちばしにくわえたまま、飛んでいった。塀に映った鳥の影が、少し遅れて、そのあとを追った。
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沈丁花の木のあとに

 庭の真ん中に、沈丁花の木があって、春にはいい香りがしていたのだけれど、二年ほど前、根元がだいぶ腐っていたところに、みゆちゃんが木登りをしたその重みで根元から折れてしまった。木の幹から枝が順々に伸びて、木登りしやすい形をしていたから、みゆちゃんもよく登って遊んでいたけれど、登ったとたんにめりめりと倒れてしまったときには、みゆちゃんはびっくりした顔をして木から飛び降りた。
 庭の他の二本の木は、塀のそばに生えていて、登ると塀を越えて庭の外へ出て行ってしまうから、登れないように猫返しをつけている。沈丁花が枯れて、みゆちゃんの登れる木はなくなってしまったから、つまらないだろうなと思う。
 沈丁花の木がなくなったあとに、庭の奥に生えている山茶花の種が飛び散ったと見えて、いくつもの株が開いた空間ににょきにょきと伸びた。山茶花は成長が早いのか、二年ほどで、一番上に伸びた枝が、大人の身長くらいになった。
 そのあたらしく生えた山茶花の木の下に潜り込んで、みゆちゃんはときどき昼寝をする。
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長すぎる爪にご用心

 横でごろんごろんしたり毛繕いしたりしていたみゆちゃんの右前足の爪が、カーペットのループ状になった繊維に引っかかって、はずれなくなってしまった。あっちへ向いたりこっちへ向いたり身体をよじらせて困っているので、手を取って、はずしてやった。その手を見ると、爪が鋭く伸びている。
 あまり爪を使うことのない家の中の猫にとっては、鋭すぎる爪はかえって不都合である。以前、実家の外猫ポチが、部屋の網戸にかけた片手の、爪が網目に引っかかって、はずれなくなってしまった。困ったポチがもう片方の手で何とかしようとしたところ、結局両方の手が網戸に引っかかって動けなくなってしまった。たまたま部屋の中にいた父が見ていたから笑い話ですんだけれど、もしそれが誰も見ていないところだったなら、大事である。
 ポチは外猫で、ときには縄張りを守るために爪が必要であるだろうから、ほどほどの長さを残して切ってあるけれど、みゆちゃんの場合は、ほとんど完全室内飼いである。長いとじゃれられたときに人間も痛いし、本人も上のような不都合があるから、切れるチャンスがあるときに、できるだけ短く切っている。
 ところが、そのチャンスがなかなかない。起きているときはもちろんのこと、熟睡しているように見えるときでも、いざ爪を切ろうとすると、前足をすぐに身体の下へ引っ込めてしまうので、みゆちゃんの爪を切るのは至難の技なのである。今回もまた、どうせなかなか切らせてもらえないだろうなと半ばあきらめつつ、眠っているのを見計らってみゆちゃんの前足をそっと掴むと、予想外に起きる様子がない。肉球を軽く押して爪を出し、ぱちんぱちんと、あっけなくすべての指の爪が切れてしまった。
 みゆちゃんは、カーペットに爪が引っかかったことに懲りたのかもしれない。だけど、手を差し出して切って欲しいと言うことは猫のプライドが許さないから、熟睡して気づかないふりをして、爪を切られたのだろう、なんていう風に考えるのは、勝手に解釈しすぎなのだろうけれど。
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