山椒の葉っぱのちっぽけな幼虫

 旅行中に枯れてしまったかに見えた山椒の木であったが、念のため水をやっておいたら、端っこが茶色くなった哀れげな葉を残しつつも、元気を取り戻してくれた。
 その山椒の木の葉っぱに、今朝、アゲハチョウの小さな幼虫がついているのを見つけた。
 黒いでこぼこした体に白い横縞がはいっていて、小鳥の糞にそっくりだ。やっぱり本当は糞かしらと疑ってしまうほど、見事な擬態である。よく見ると、別の葉っぱにも同じようなのがもう一匹いた。こんなに小さい身体で、昨夜の大雨はどうやってしのいだのだろうと思う。
 しばらく前に、息子が「ちょぅちょ、ちょぅちょ」と庭を指すので見ると、きれいなアゲハチョウがひらり、ひらりと日を浴びて舞っていた。狭い庭をひと回りして、青葉の生えそろった百日紅の枝を越え、高い空へ上っていった。こんな町の中にもアゲハチョウがいるものかとうれしく思った。
 庭の山椒の木に卵を産んでいったのは、そのアゲハかどうかわからないけど、広い町中で、よくこの小さな山椒の木を見つけたものだと、不思議である。
 いまや山椒の木は新たな二つの命を乗せているので、今度こそ枯らしてしまわないよう、しっかり注意しなければならない。さっそく水をやろうと窓を開けると、さっきまで葉の上に臥せったようにしていた幼虫が、短い身体で精一杯、ヘビが鎌首をもたげるように、上体を起こしている。窓の開く音に驚いて、威嚇の体勢をとったのかもしれない。どんなにがんばって頭を上げて、身体を大きく見せようとも、体長1センチに満たないおちびちゃんであることに変わりがないのが可愛らしいし、二匹して同じ反応をしているのも面白い。
 息子はまだ小さすぎて、小さな黒い幼虫が、変身を重ねて蝶になっていく過程はよくわからないだろうけれど、毎年アゲハが来てくれるよう、山椒を立派な木に育てたい。
 ひとつ心配なのは、本当に小さな木であるから、彼らが脱皮を繰り返して、立派な体躯の緑色をした幼虫になったときに、じゅうぶんにお腹を満たすだけの葉があるだろうかということである。
 そんな懸念もあるから、人間様の木の芽料理は、当分のあいだおあずけである。
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香り付き消しゴムとキン肉マン消しゴム

 昨日書いた話に、「香り付き消しゴムの味がするリゾット」がちらと出てきたけれど、小学校の頃は、香り付き消しゴムが女の子のあいだで大人気で、私も御多分に漏れず集めていた。赤やオレンジの小さな星型やハート型で半透明、しかも香り付きの消しゴムのセットを売っているというので、かなり遠くの文房具屋へ、自転車で坂を上って、友達と買いに行ったこともある。だから、お昼を食べに入った店で、香り付き消しゴム風味のリゾットが出てきたときも、あきらかにおかしな味だったのだけれど、味覚、嗅覚のほかに懐かしさという第三の要素が入り混じって、私の脳は「なんとなくおいしい」と判断し、一緒に行ったほかの人は変な顔をして残していたのだけれど、私は全部食べてしまったのだった。
 香り付きだけではなく、面白い形の消しゴムもいろいろと集めていた。野菜の形とか、ペンギンの形、中でも、子供心に一番感心したのは、ハンバーガーショップの商品をかたどった消しゴムで、紙で作ったケースを開けると、中に可愛らしいハンバーガー消しゴムが入っていたり、赤い紙ケースに、黄色いポテト消しゴムが立てられているのであった。
 こういった消しゴムが実用に耐えうるのかというと、字はあまりよく消えない。今となっては、字の消えない消しゴムの存在理由は謎であるが、当時は使うなんてもったいなくて、しまっていた筒型のケースから取り出して並べ、眺めては満足し、また大事に片付けておくだけなので、そんな疑問も浮かばなかった。その後、集めていた消しゴムがどこへ行ったのか、わからない。集めることに興味を失ってから、使うにもあまり役に立たないし、誰か小さな子供にあげてしまったのかもしれない。
 消せない消しゴムという点で徹底しているのは、「キン消し」である。キン肉マンのキャラクターのゴム人形で、一度、ためしに鉛筆で書いた字をキン消しのかかとでこすってみたら、消えるどころかこっすたところが真っ黒になった。キン消しの詰まった箱を見て、父は肌色が気持ち悪いと言っていたが、弟は友達と競い合ってキン消しを集めて、箱の中の肌色の塊はどんどん大きくなった。
 子供の頃、どうしてあんなに消しゴムが魅力的だったのか、不思議である。さすがにいい年の大人になって、多少は自制心があるからすぐには買わないけれど、今は猫グッズを見たら欲しくなるのと、根は一緒なのかもしれない。
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クレヨン味のチョコレート

 また風邪をひいた。
 今度は鼻風邪で、鼻水が出たり鼻が詰まったりするので、食べ物の味がちっともわからない。うまいもまずいもないので、この際、好きなものは食べても値打ちがないから差し控えて、いつもなら嫌いなものを中心に食べようかなどと思う。子供の頃、嫌いな食べ物を、鼻をつまんで食べると、食感だけは残るけれど、味は消えて、何とか食べられたような記憶がある。
 もっとも、嗅覚がきかなくても、塩味、甘味、苦味、酸味などの味覚は感じることができるらしい。しかし、もっと複雑な風味となると、嗅覚がなければわからない。味覚と嗅覚両方の情報を脳でひとつに統合し、はじめて風味として認識されるのである。
 「このメロン、ビニールの味がする」とか「クレヨン味のチョコレート」とか「香り付き消しゴムの味がするリゾット」とか言うと、たいてい、それではお前はクレヨンとか消しゴムを食べたことがあるのか、と聞き返されるのだけれど、味覚と嗅覚のあいだにはこれほど密接な関係があるのだから、こういった感想もあながち突拍子もないものでもあるまい。
 ともあれ、食べ物の味がしないから、食欲もあまり起きない。これは、猫の場合さらに顕著である。人間なら、味がしなくても、食べろと言われれば食べることができるけれど、鼻づまりの猫に、どれだけおいしいものを勧めてみても、ちっとも食べようとはしない。普段は大好きな刺身を鼻先に持っていっても、まるで無関心である。人と違って猫の場合、まったく食べられなくなるから、猫の鼻づまりは、はやく治してあげたい。
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おせっかいな新潮文庫

 新潮文庫を買ったら、帯に「文字が大きくなって読みやすくなりました」と、新旧のページの見本が並べて示してあった。
 新潮文庫は、字体や、行間の幅などのレイアウト、紙の色や、栞ひもがついているところが好きであるから、ますます読みやすくなったというのは誠に結構なことであるけれども、如何せん、中身についても読みやすくしようというつもりなのか、最近の新潮文庫は、注釈やルビの数もおせっかいなほどに多いと思うのである。
 もちろん、親切な注釈が増えるのはよいのだけれども、最近の新潮文庫の注釈は、親切を通り越して、おせっかい、ありがた迷惑で、作品の味わいを損なうようなものさえある。
 ほとんどの人が知っているような言葉にもアスタリスクが付けられているので、何か、その本が書かれた時代に独特な意味でもあるのかしらと思って巻末の注釈を見ると、ただ、普通の用語解説がなされている。
 あるいは、作者が婉曲に表現するために選んだ言葉を取り上げて、ずばり説明を加えてみたり、情景の描写が表している作中人物の心理を解説したり、さらには、本の最初で物語の結末をばらすような注釈をつけたりと、まるで、読解問題の解答のようで、作品の持つ奥ゆかしさとか趣とか、そういったものを台無しにしている。注釈を見て、はじめてわかることもあるけれど、わからないまでも、私は生の作品をそのまま受け止めてみたいと思っている。
 若い人たちのことを考えて、そんな注釈をつけているのかもしれないけれど、本が好きな子供なら、読めない漢字やわからない言葉は自分で辞書で調べるだろうし、知らない言葉の意味を前後の文脈から推測したり、文中の表現が何を比喩しているのか自分で考えるということは、国語力を伸ばす上で、とても大事なことだと思う。それを、全部先に並べて示してしまっては、自分の頭で考えることがなくなってしまう。新潮社が、教育的な配慮のつもりでおせっかいな注釈をつけているのだとすれば、それはまったく逆効果ではないかしら。
 もっとも、読書嫌いな子供たちには、丁寧な注釈とルビは有効であるだろう。しかし一冊の本で、読書嫌いな層と一般の読者層をカバーしてしまおうというのは、無理がある。入門書的な、より親切な解説のついた別の版を出すべきである。
 無視しようと思っても、星のようにちりばめられたアスタリスクが目に付いて、文豪たちが苦心の末に生み出した、清い流れのような文章は、しばしば、その流れを止められてしまう。
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おしゃべりスズメの動画

 先日、新聞で言葉を話すスズメの記事を読んで、いったいどんな声でしゃべるのだろうと思っていたら、その動画があった。ニュースステーションでも報道されたらしいので、すでに見た方も多いかもしれないが、まだ見ていなくて、興味のある方は、どうぞご覧ください。

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ちゃぷりの操

 近ごろ、実家の庭に近所の猫がよく侵入してくる。縞ぶちの雄で、外猫用のえさを食べに来るのである。
 えさを食べに来るだけならかまわないけれど、外猫のポチと喧嘩をして、ポチはしょっちゅう顔に引っ掻き傷をこしらえているから、表で猫の喧嘩の声が聞こえると、家の者はポチに加勢するためいつも慌てて飛び出していかなければならない。
 このあいだも、母が二階のベランダで洗濯物を干していたら、庭に争いの声が上った。とっさに声のした方を見て、母は焦った。体勢を崩したポチがほとんど仰向けにひっくり返っており、そこへあの縞ぶちが、まさに襲いかからんとしているのである。万事休す…
 そのとき、二匹のあいだへ突如跳び出して行ったものがあった。なんとちゃぷりである。ちゃぷりは縞ぶちに跳びかかって追い払い、見事ポチの窮地を救ったのであった。
 ときどき動物番組などを見ていると、雌は争いに勝った雄を相手に選ぶのが普通である。同じネコ科の雌ライオンは、わざと雄同士を闘わせたりする。強い子孫を残したいという生物の本能によるところだろうけれど、ちゃぷりは、そういう動物的本能に反してまで、人(猫)生の伴侶たるポチへの操を守ったのである。
 いつも要領が悪くて可愛げのないちゃぷりだけれど、この一件でずいぶん女を上げた。ちゃぷりは一生懸命、縞ぶちに立ち向かっていったのだろう。けれど、あのころころとよく太った根暗顔のちゃぷりが、どこかからポチがやられそうなのを見ていて意を決し、必死な表情で転がるように駆けて行くところを想像すると、なんとなく可笑しくなってしまうのである。
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ヤモリの子の負傷(後篇)

 ただし、完全に回復するまでは自分でえさをとれないかもしれないし、その場合には、危害を加えたみゆちゃんの保護者責任として、しばらくヤモリの面倒を見てやらねばなるまい。
 とりあえず、物置の棚にヤモリを置いて、足の傷に化膿止めの薬を塗り、しばらく様子を見ることにして、保護しなければならなくなったときのために、ヤモリの飼育方法をネットで検索した。
 ヤモリは、隠れる場所さえ確保してやれば、普通のプラスチックの飼育ケースで飼えるそうだが、一番の難点は、生きたえさしか食べないことである。運悪く、翌日から旅行へいくことになっていたので、保護しなければならなくなった場合には、実家に預かってもらおうかしらと思ったけれど、さすがに、ハエを生け捕りにして与えてくれとまでは頼めない。ペットショップで売っているミールワームという生餌でもよいそうなので、それを買ってこようかなどと考えながら、ときどきヤモリの様子を見にいくと、最初はまったく動けなかったのが、見に行くたびに少しずつ移動しているようになって、これなら大丈夫かもしれないと思ったら、しまいに元気を取り戻したのかどこかへ行ってしまった。
 ヤモリの子が助かってなによりであるし、みゆちゃんの保護者としては、大事にならなくて、ほっと胸をなでおろす気持ちである。くわえて、ハエを捕まえたりミールワームなるものを買いに行くはめにならずにすんでよかったと、安堵している。


※ヤモリの飼い方を参照したページはこちらです。面白いので、興味のある方はどうぞ。
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ヤモリの子の負傷(前篇)

 庭から戻ってきたみゆちゃんが、台所の隅で、なにかをくちゃくちゃと噛んでいる。その口から、人の小指よりもまだ小さい、黒っぽい細長いものが床の上にぽとりと落ちた。
 非常に嫌な予感がしたけれど、そのまま放っておく訳にもいかないので、覚悟を決めて見に行くと、ミミズでもナメクジでもなく、それはヤモリの子供であった。
 仰向けにぱったりとひっくり返って動かないので、手遅れであったか、可哀相にと思いながら、まだ遊びたそうなみゆちゃんを取り押さえつつよく見ると、喉のところがひくひくと上下に動いていて、息があった。尻尾はすでになくなっていて、左の太ももに深い傷を負っている。手のひらにのせると、不思議な金色の目でどこか一点を見つめ、じっと動かないので、今は生きているものの、もうだめかもしれなかった。
 庭に降りて、みゆちゃんの手の届かない木の枝にのせておこうかと思ったら、木の上には蟻がうようよいるので断念し、蟻のいない、塀の上に置いておいた。
 しばらくして庭を見ると、ヤモリの子を置いた塀の下あたりにみゆちゃんが前こごみになって、何かをじっと見つめている。大変だと思ってあわてて見に行くと、地面の上に落ちたヤモリに蟻がたかり、哀れなヤモリは自由のきかない身体を一生懸命よじって抵抗している。ヤモリを拾って蟻どもを払い、最後までしつこく胸の皮に食いついていた一匹も弾き飛ばして、やれやれと思ったら、まだ顔の辺りに蟻が一匹くっついている。まだいたかと思って払おうとすると、そうではなくて、逆にヤモリが蟻をくわえ込んでいるのであった。
 自らの身体をかじりに来た蟻を捕らえて食べるという、ヤモリの根性というか、逆境での強さを目の当たりにして、この子は元気になるかもしれないという希望がわいた。(つづく)
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猫とアイロン

 五月にしては冷えた日曜日の夜、シャツにアイロンをかけていると、ソファの上の定位置で寝ていたみゆちゃんが、つと起き上がって、そばへやってきた。アイロンをかける手を止めてなでてやると、ごろごろ言ってすり寄ってくる。やけどをしないよう、立てて置いたアイロンを遮るように出した手のひらにも、ぐいぐい頭を押しつけてくるので、しまいに猫の湿った鼻が、じゅっと音を立てるのではないかとひやひやしていたら、膝の上に上ってきた。膝に来るのは珍しいので、今日は少し寒いからかなと思ったら、私の膝はだた踏み台に使っただけで、膝を渡って、アイロンをしかけてほかほかするシャツの上に寝転がった。わたしの膝よりもアイロン台のほうが暖かいのをどうしてわかったのか不思議である。しわを伸ばしたシャツの上でごろんごろん転がるので、白い細かい毛がたくさんついて、知らずに着たら、背中がこそばゆくなりそうである。
 子猫の時分には、アイロンをかけていると、広げたシャツが天幕みたいになったアイロン台の下に、もぞもぞと身体をかがめてもぐって行った。しばらくそこでじっとしているので、台の下も暖かいのかしらと思っていたら、台から垂れたシャツの裾から、みゆちゃんの手が、肉球の側を上にしてにゅっと突き出てきた。にゅっと出ては、台の縁を引っ掻くような動きをするので、ピンクの肉球がアイロンに触れないか心配で、作業を中断せざるを得なかった。
 余熱の残ったアイロン台の上でお腹をさすってもらい、気持ちよさそうにごろごろしているみゆちゃんは、近ごろ丸まるふとったから、さわり心地はとてもいいけれど、もう狭いアイロン台の下へもぐり込むのは、なかなか億劫なのかもしれない。
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太宰治「斜陽」

 通っていた中学は、姉妹校同士が成績のよさを競い合っていたために、教育熱心で、年中いろんな行事があり、夏休みの宿題もどっさり出た。
 その大量の宿題を、夏休みの最後の日まで放っておいたので、8月31日は、徹夜のやっつけ仕事であった。主なもので、読書感想文が二本と、歴史の人物年表、音楽鑑賞文、理科の自由研究などがあった。
 さすがに読書感想文の本はもう少し前の日から読み始めていたのだけれど、それでも切羽詰っていたから、指定図書の一覧の中から、比較的薄い本を選ぼうと思って、たまたま家にあった文学全集か何かに収録されていた、太宰治の「斜陽」をまず手に取った。が、五、六頁ほど読み進めて、真の貴族たる「お母さま」がお庭の萩の茂みでおしっこをするあたりで、とても感想文は書けないと思い、やめてしまった。「斜陽」をやめて、結局どの本を読んだのかは忘れた。
 その「斜陽」を、この前、読んだ。さすがに二十年の月日を経たあとでは精神構造も多少は高度になったと見えて、今回は面白く読めた。中学生の時には、訳もわからずちっとも面白くなくて、それこそさわりの部分しか読んでいないから、没落した貴族の静かな物語なのかと勝手な印象を持ち続けていたら、激しい展開に驚いた。
 が、面白いけれど、わからない。「斜陽」の登場人物それぞれに現れる太宰の悩みとか、思想とか、生き方について、せつなさを感じたりはするけれど、どこか食い違っているような違和感があって、共感を得たり、感銘を受けることはできない。
 太宰治と私の生きている時代があまりにも違うからか、単に私の読解能力がまだまだ足りないためか、はじめて「斜陽」の頁を開いた中学生の夏の日から二十年近くが経ったけれど、まだまだ読書感想文は書けそうにない。
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