新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

豊川市にある三河国分尼寺跡史跡公園に行く!!

2023-04-07 05:55:58 | B級スポット

豊川市にある

三河国分尼寺跡史跡公園に行く!!

公園と言っても滑り台やブランコがある訳ではなく…

741年、聖武天皇の勅命によって建てられた三河国分尼寺の跡地をきれいに整備してある場所でして…

な、なんと…奈良時代にタイムスリップしたみたいに…

国分尼寺の中門が復元されているんだな

 

 

あ、復元されているのは、中門のみ…

他は、礎石のみが残る、ダダっ広い公園…この史跡公園内でかくれんぼするのは、そうとう難しい…多くの子供たちが中門に殺到することだろう…

 

 

1967年に愛知県教育委員会による発掘調査が実施され、南大門・中門・金堂・講堂および中門と講堂を結ぶ複式回廊の遺構が判明したそうな…

なかでも金堂の規模は、国分尼寺としては全国最大!

その調査結果を踏まえた上で、建物の移転や復元などの整備が行われ、2005年にこの公園が完成したそうな…

 

随分な県費が使われた割には、誰もいません!!

休日、それも土曜日なのに…

さてさて、調査時の出土品は「三河天平の里資料館」に展示されているとのことで…

やっぱり、ここ「三河天平の里資料館」にまず立ち寄って、三河国分尼寺についての知識を得ておかないと…ただ、だだっ広いなあ…ここで、かくれんぼは難しいだろうな…といった感想だけ持って、帰りそうな私なので

ここ、嬉しいことに…タダ…タダ…私の大好きな無料で入れちゃうよ

 

さてさて、まず

国分寺・国分尼寺についてですが、奈良時代、聖武天皇が詔を出して当時の日本各地に建立させたお寺のこと…国分寺と国分尼寺が対(セット)で、愛知県には「尾張国」と「三河国」に造られたようで…東大寺と法華寺がそれぞれの総本山となります…

8世紀後半に完成し、国家仏教を広める役割を担いましたが、律令制度の崩壊とともに、平安時代の末には荒廃したようで

 

館内の展示はワンルームのみ…

予想通りスタッフ以外…誰もいません!!

 

先ほど写真をアップした復元された中門を作る際に使われた桧…そうとう立派で、多大な県費が使われたことでしょう??

 

 

華開く天平文化の確立の解説パネル

 

そして、よみがえる古代三河国の解説パネル!

大化の改新…いやあ、小学生の時、初めて知った言葉…

今は、歳を重ねて心が澱んでしまって…

「大化の改新」ならぬ「退化の改心」

 

おお、上手いこと言った!言えた!!大満足!!!

 

三河国国分尼寺の近くにある5世紀後半頃(古墳時代中期)の築造で、墳丘長95mは東三河では最大である前方後円墳の船山古墳(船山1号墳)からの出土品!!

いやー!!古墳だけにコーフンするね???

 

三河国分政庁跡からの出土品

軒丸瓦とか軒平瓦とか

が好きだったんでしょうか…

仏教を広メ―!!お経を読メ―!!そんな気持ちだったのかもしれません!!

 

今回、寄ってはいないけど…国分尼寺があれば、国分寺が当然あった訳で…

その「三河国分寺」の解説板

そして、見取り図

 

平仮名のるびがうってあるのが、小学生低学年でも読めるようにと優しい心配り…

「近藤(こんどう・金堂)くん」がいじられそう??

いじられて、ついじへい築地塀・つい自閉)傾向になりがちだろうけど、ここは、「なんだい?もんくある?(南大門くある?)」と奮とう・塔)してほしい…

とオヤジギャグを思いつきに、この館にきたのではないんだけど…

 

その三河国分寺跡からの出土品

創建瓦…模様は蓮の花を表現しているよう…

そして、目の前に復元された中門と礎石(これも復元…ホンモノは土の中に眠っている??)のみが残っている

三河国分尼寺の想像図…

いやあ、礎石と出土品だけで、こんなふうに想像して描けちゃうなんて、こういった史跡を訪ねるたびに、いつも凄いなって思っちゃう!!

 

三河国分尼寺の調査の解説パネル

これを、よくみておけば、

この後歩く三河国分尼寺跡史跡公園に行っても、ただぶらぶら歩いて帰りました…なんてことにはならない!!

三河国分尼寺の創建瓦

 

左側の四角のものは「せん」…レンガ状の建築素材だったようで

 

瓦窯について

赤塚山古窯跡

赤塚山第一号窯模型

ぱっと見、私は「どーもくん」のように見えたけど

 

そして、全国の国分寺、国分尼寺の写真パネル

 

 

尼僧の生活

 

最後にここ「三河天平の里資料館」における目玉の展示と思われる

三河国分跡から出土した

蹄脚円面硯

そして、三河国分尼寺跡から出土した優しい顔つきの

「鬼瓦」

ではでは、ここで十分に三河国分尼寺について学んだので…

早速館外へ出て、三河国分尼寺跡の散策をば

 

この写真の左側

次の写真の手前のコンクリで固められた地面の場所には

南大門があったようで…

 

 

礎石がみられなくて…残念だけど…

南大門くある??(なんだい、文句ある???)

このオヤジギャグ、さっきも言ったがな…

南大門くある??(なんだい、文句ある???)

さてさて南大門は復元どころか礎石も残っていませんが

中門と回廊の一部が復元されていまして

 

 

おお、まさに天平文化にタイムスリップ

ホンモノの礎石の上に柱を建てた訳ではないらしい…本物の礎石はこの土の中…

 

回廊は途中までで、あとは礎石が残っているだけど、ここは妄想の中で回廊を築き上げて…笑

 

 

 

どんどん妄想の中の回廊をドンドン、向かって左に進むと

石製の地形縮小模型が

近くの史跡についての案内解説板が四方に示されています…

 

 

三河国分寺跡

ここは、この三河国分尼寺のように整備されてはいないようです…

三河国府跡

名鉄に「国府駅」があるから、その近くにあるのでしょう…

船山第1号墳

いやー古墳だけに…もう…言わないよ!!

 

 

さてさて、中門に戻って…中門をくぐると

正面には

金堂跡基壇

 

礎石は復元で本来の礎石は地下に、そのまま埋められ保存されて
いるとのこと…

基壇規模は、東西26.1m(柱間7間)、南北13.7m(柱間4間)の瓦葺きの建物であったとのこと…
基壇の中央が須弥壇、その上に仏像が安置されていたらしい
この金堂の基壇規模は、国文尼寺では最大級とのこと



金堂跡基壇から南大門を眺める…

奈良時代、多くの人がこのアングルで、南大門を眺めていたことでしょう…

 

 

 

金堂跡を通過して講堂跡へ向かう左側に鐘楼跡その対称の場所にある経蔵跡

 

 

どちらがどちらなのか推定できていないらしく…経蔵跡と示された場所が鐘楼跡…鐘楼跡と示されたところが経蔵跡といった可能性もあるみたいです…

 

そして、講堂

 

経典の講義を行った建物…

回廊が中門から左右にこの講堂に繋がっていたよう

コンクリートの上に復元礎石

礎石がずらっと、こう、どうよ!!

端から端まで歩いて、テキパキとこうどう(行動)する私…こうどう(講堂)跡だけにね…

 

講堂跡から金堂跡…そして中門を眺めてみる…

奈良時代の人は絶対、このような光景を眺めることはできなかった…なぜなら、中門とこの講堂の間に、金堂が建立されていたから

 

講堂の奥には尼房跡

多くの尼僧がここで暮らしていたのでしょうね

ここは礎石なんぞありません!コンクリートで固められていました…

 

北方建物跡

 

 

コンクリの上に復元礎石が…なんらかの建物があったようで…

五重搭の跡ではありません!!国分尼寺には五重塔はなかったのよ!!国分寺にはあったけど…

 

さらにその北には

掘立柱塀跡

 

 

ここまでくると、中門が遥か遠くにみえる!!

 

最後は回廊(かいろう)を通ってかいろう(かいろう)!!

 

 

 

 

 

オチがショボいのはしょーむない…もとい…しょうがない…

そう、もうしょーむ(聖武)天皇の勅命で建てたこの国分尼寺はなくなちゃってますからね…

そう…しょうむ…ない…からね!!