ようこそ西千葉へ アミーゴ.

ゴールは88歳。誰も教えてくれない12年。主役は自分だ。昨日はもう来ない今日を明日をどう生きる。わはははーアミーゴ

住み込みで働く「15歳の春」

2012年06月19日 | 地域通貨ピーナッツクラブ
昭和31年 そのときの住み込みとは、今で言う賄いつきの寮生活かな、食事も作ってくれてお風呂にも毎日入れるのです、3畳一間、窓もないが贅沢極まりない生活でした。 佐倉にいるときは6畳一間「家族5人でしたからね」 朝2時、 叔父が「まことー起床」という声に起こされ西千葉駅へ、自転車に乗り新聞「1梱包500部ぐらい」を取りに行く、新聞店に戻り200部ぐらいの配達にいく、 この時代は大勢の新聞少年が新聞を配達していました。冬の寒さにあかぎれとしもやけが、 でも 働いて給料がもらえる嬉しさは格別でした。ステレオを買い白い革靴を宮本靴屋さんに作ってもらいました。給料のほとんどはどん底貧乏生活の母に仕送りをする。どのように仕送りをしたかの記憶はない。5年間の間に道路が舗装される。 働きながら次の仕事探しを始めていました。 20歳になる前のことです。 振り返ることは簡単だが、嫌なこと、辛いこと、悲しいことなどは忘れ、良い記憶だけが残っています。 あみーご 海保まこと

家を出て西千葉へ

2012年06月19日 | 地域通貨ピーナッツクラブ
 昭和31年3月、佐倉中学校を卒業したぼくは家を出る。佐倉57連隊の兵営宿舎「今の時代で言えば震災仮設住宅」故郷を離れ働くため、総武線佐倉駅へ 母と一緒でした。 そのときの記憶はあまりないが何故か、汽笛の音と煙突から出る白い水蒸気と煙、。手を振る母、汽車に乗って窓から外を見ながら震えるような興奮をしたことを思い出す。千葉駅に着き、電車に乗り換え西千葉へ、春日町側に降りる。線路脇を歩いて線路を渡り高野新聞店に、 新聞配達の仕事「住み込みとして」 西千葉「松波町」15歳でのスタートです。
総武線は千葉駅までは汽車が、千葉から東京へは電車、ゆりの木通りは舗装道路ではなく砂利道でした。電話も近所の方が借りに来る。水道もよく断水しました。その年、赤線「売春宿」が公認でしたが廃止された年でもあります。西千葉生活56年 現在71歳 残された人生、どのように生きたらよいか、何ができるのかなあ、  健康にも恵まれ仲間にも恵まれ家族にも   ゴールを目指してゆっくりと日々を過ごす。    あみーご   海保まこと