私の三丁目

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と共によみがえるあの頃、そして今

ALWAYS 万年筆

2007-12-11 01:02:44 | 映画「三丁目の夕日」

映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」も公開6週を迎え、関連グッズの "SOLDOUT" も目立つようになり、祭りの後の寂しさを感じ始めていました。

そんな週末に「ALWAYS 万年筆」の話題が飛び込んできました。「ALWAYS 続・三丁目の夕日もモチーフにした万年筆が、小学館の雑誌 Lapita に付録としてもれなくついている」というのです。

この話題、文房具を愛するブロガーの皆さんの間では広く知られていたようなのですが、私は全く知りませんでした。

すでに入手された人の中には「大手書店では売り切れだった」方も少なくないようで、半分あきらめつつ、日曜日の夜に隣町の本屋までクルマを走らせ、どうにかゲットすることができました。

定価980円の雑誌に付属するオマケですし、公式コラボ商品ではないようなので、「とりあえず一本押さえておくか」というくらいの軽い気持ちだったのですが、「続・三」カラーのパッケージを見て、びっくり。作り手の思い入れを感じてしまいました。

パッケージ裏面にはこんなコピーが記されています。「2005年に大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の続編『ALWAYS 続・三丁目の夕日』が11月に公開され、前作以上に好評を博しています。この万年筆は、その映画ポスターの配色をモチーフに製作しました。映画では主人公が芥川賞をめざして万年筆を走らせますが、ラピタ読者の皆様もビジネスにプライベートにと、常に[ALWAYS]この万年筆をお使いになり・・・」。

ミニ万年筆というだけあって、確かに小ぶりなサイズですが、手帳などに挟むにはピッタリの大きさで、なんとインクカートリッジも2本付属しています。

万年筆を使うのは、何年、いや何十年ぶりでしょうか。おそるおそるペンを走らせたところ、ペン先の運びがなめらかなことに驚きました。

う~ん、これでは雑誌と万年筆のどちらが付録なのかわかりません。公式グッズのボールペン(525円)が、ちょっとかわいそうになりました(^^;

ペングリップに「ALWAYS」の文字も刻印されているこの万年筆。ショルダーバッグのカーキ色ともよくマッチするようです。これまでに買い集めた「続・三」グッズの中で、もっとも実用的な一品かもしれません。

昭和の鉄道模型をつくる(19~20号)

2007-12-09 10:05:18 | 私的「三丁目の夕日」



駅前に喫茶店と魚屋さんができたというのに、「竹芝桟橋から上陸した巨大生物」に襲われています。

この巨大生物の足。昨年の冬、アヒルだと思って買ってきたのですが、どうやら他の生物の足だったようです(^^;

「昭和の鉄道模型をつくる」19号と20号が到着しました。今回付属のストラクチャは、喫茶店と魚屋さんです。今回も差し込むだけでは安定しないパーツが多く、ピンセットとボンドが活躍しました。街並みがだんだん育って行きます。

思えば、昔のような魚やさんも喫茶店は、あまり見かけなくなりました。喫茶店は外出時の時間調整によく利用するのですが、ドトールやベローチェといったチェーン店がほとんどです。専門の「魚屋さん」を最後に利用したのはいつのことでしょう?

東京・江東区の下町に住んでいた頃は、店先で母が選んだ魚をおろしてもらうのが普通でした。ゴム長靴を履いたハチマキ姿のお兄さんの「さぁ、らっしゃい、らっしゃい。今日は○○がおすすめだよっ」という威勢のよいかけ声を思い出します。

昔は消費者自身の目で品物を選び、それが食べられるかどうかを判断するのも私たち自身でした。盛んに報じられている食品偽装の問題など、起こりようがなかったかもしれません。

母に「すっぱいにおいがしたら、食べちゃダメなんだよ」などと教えられたものですが、今の若者はこのような判断ができるのでしょうか?

昭和30年 -- レンズが見てきたもの

2007-12-07 00:01:06 | 私的「三丁目の夕日」

昭和30年に発売された「Minolta A」というモデルです。

昭和31年生まれの私には、誕生直後の写真がたくさんあります。このカメラは父だけでなく、当時としては珍しく母も使いこなしていたようです。

発売時の価格を調べたところ、1万8,500円。カレーライスが100円、天丼が150円、東京~大阪の航空運賃が6,300円の時代です。東北の田舎に住んでいた若夫婦の買い物としては、かなり思い切ったものだったと思われます。

両親がそんな無理をしてまでカメラを購入したのには、理由がありました。

私が生まれる前年の8月、母は初めての子供を出産しました。私の兄です。わずか生後一週間で、兄は母に抱かれたまま駆け足で短い人生を終えたそうです。

時代が時代ですからしかたがないことなのですが、兄の写真は一枚も残っていません。それを不憫に思った両親が、私が生まれる直前に購入したのがこのカメラだったようです。

このブログで紹介してきたモノクロの写真は、いずれもこのカメラで撮影されたものです。小学校高学年になるまで、出かける時にはいつも一緒でした。この小さなレンズが、両親と兄弟3人の家族の歴史をすべて見てきたのです。

実家の家族は私を含めて5人ともどうにか健在ですが、数年前から心は離ればなれになっています。憎しみ合っている、といった方がよいかもしれません。

私が夕日町三丁目に住む人々に惹かれる理由のひとつは、きっと、こんな状況からの現実逃避なのでしょう。

この写真を撮影する時にレンズカバーを外そうと思ったのですが、私にはできませんでした。両親や兄弟との今の不幸な関係を、このレンズに見られてしまうことが怖かったからかもしれません。

手入れもせずに汚れてしまったカメラを磨いてあげなくては。そんなことを思いました。

カネよりも大事なもの(2)

2007-12-05 00:01:59 | 映画「三丁目の夕日」

「続・三」の鑑賞を繰り返すうちに、小日向文世さん演じる川渕康成を悪役とは思えないようになりました。先日、劇場で5回目を見た時には、三丁目の人々に「帰れ、帰れっ!」と攻撃される彼を可哀想に思ったほどです。

茶川さんに、あえて「か、カネじゃないんだよっ。世の中にはもっと大事なものがあるんだよっ」と言わせた後の展開は、この作品の脚本がいかに練られたものかを示しているような気がするのです。

映画やドラマはフィクション=作り話であるが故に面白という一面があります。一方で私は、作り話だからと言って、観る者、特にまだ判断力が十分ではない若年層に「誤った感動」を与えてはいけないとも思うのです。

『夕日町三丁目の人たちが一緒になって淳之介のお父さんを追い返し、茶川さんと淳之介はこれまで通りのゆる~い生活を送りました。世間になんと言われようと、自分達の生き方を守り通した二人は、とても幸せでした。めでたし、めでたし』というストーリーがないわけではありません。いや、こういう「泣かせ方」だってあるでしょう。

なぜならば、映画はフィクションだから。いろいろな人生経験の後、そう確信したオトナがいれば、それはひとつの生き方です。しかし、こんな選択肢の少ない人生が本当に幸せなのでしょうか?

もし、家族と一緒に劇場へ足を運んだ子供達が「おカネなんかなくても、幸せになれるんだ。こういう暮らしもいいなぁ」などと感じたとしたら、私は「50年後の夕日」のことが心配になってしまいます。

茶川さんが「お金よりも大事なもの」として訴えたかったのは、きっと「人の気持ち=心」のことでしょう。そして、両者は「二者択一」されるものではなく、バランスよく両方とも必要なはずです。

茶川さんと川渕さんは、お互い「どちらか一方に傾いているバランスの悪い人」として描かれていて、その二人がそれを修正していくところが、この映画を支える柱のひとつなっていると思います。

メディアやネットワークが発達し、子供達は情報の洪水におぼれかかっています。映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を観る度に、50年後の夕日のことまでをも考えて作られたこの作品こそ「カネよりも大事なもの」だと思うのです。

昭和37年 -- 伸びゆく鉄道科学大博覧会

2007-12-03 07:59:29 | 私的「三丁目の夕日」

昭和37年に東京・晴海で開催された「伸びゆく鉄道科学大博覧会」での、2歳違いの弟(右側)とのスナップです。

先頃オープンした大宮の鉄道博物館が話題となっていますが、この大博覧会も晴海の旧見本市会場に線路を引いて、本物の車両を持ち込んだ大がかりなイベントだったようです。

当時はまだ珍しくなかった C62、D51、C51などの SL も展示されていたそうですが、子供達の興味はきっと、新しい電気機関車や電車だったのでしょうね。

残されている写真はこの一枚だけなものですから、実際にどんな車両が展示されていたのかは不明なのですが、「ビジネス特急こだま号」の一部車両や、開業を2年後に控えた「新幹線の先頭車両」なども見ることができたようです。

実はこの博覧会に連れていってもらったことはすっかり忘れていました。今年夏に両国の江戸東京博物館で開催された「大鉄道博覧会」へ行った際に、45年前のこの大博覧会のことを知り、古いアルバムからこの写真を見つけ出したという次第です。

映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」のロケが行われた晴海の見本市会場跡に、かつて「こだま号」の車両が置かれていたとしたら、なにか「縁」のようなものを感じてしまいますね。

それにしても昔の子供達は、みんな鉄道が好きでした。

昭和47年 -- 通学路は夕日町三丁目?

2007-12-01 17:18:20 | 私的「三丁目の夕日」

東京タワーを背に、都電の走る大通りを右折すれば、そこは夕日町三丁目。

モデルになったと言われる「虎ノ門3丁目」は、昭和40年代に町名変更されるまで「西久保巴町」と呼ばれていました。

実は、夕日町三丁目がまだ「西久保巴町」だった頃、そこは私の通学路でした。

すでに都電は走っていませんでしたが、地下鉄「神谷町駅」で降り地上に出て、桜田通りを右折し、西久保巴町を通って愛宕トンネルを抜ける。これが、私が毎日通ったルートでした。

当時は今のように大きなオフィスビルも建っておらず、外国のビジネスマンを見かけることもありませんでした。神谷町駅から愛宕トンネルまでの道は、「とても品の良い下町」というたたずまいでした。

社会人になってからも、なぜかこの周辺にはご縁があって、今のオフィスも愛宕山のすぐ近くにあります。そういえば、私が結婚式を挙げた会館も、大通りを挟んだ夕日町三丁目の反対側にありました(^^;

写真は今から2年前の秋、前作「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た直後に現地を訪れたときのものです。平行して走る桜田通りの喧噪が嘘のように裏道は静かで、昔懐かしい木造・瓦屋根の家がまだ残っていました。

「どんどん変わっていくのね・・・」。私が通った学校は数年前に廃校となりました。トモエさんの言うように、この写真の光景も今では見ることができないかもしれません。