私の三丁目

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と共によみがえるあの頃、そして今

[旅メモ]八甲田丸車両甲板

2009-07-29 22:31:02 | 続・だからわたしは北国へ

青森港にほぼ現役時代のまま係留されている青函連絡船「八甲田丸」。車両甲板には、青森駅につながる可動橋から搬入されたと思われる車両が並べられています。

この空間に足を踏み入れたときには、まるでタイムスリップしたかのような感覚に襲われ、鳥肌が立ちました。

八甲田丸を「下船」した後は、「津軽海峡・冬景色」の歌碑へ。今年3月21日の深夜この場所を訪れた際には、iPod がフリーズする程の寒さでしたが、この日は「煙突展望台」から穏やかな津軽海峡を望むことができました。


[旅メモ]ボックスシート

2009-07-21 22:38:12 | 続・だからわたしは北国へ

東能代から能代まで乗車した普通列車の車内です。

昨年から今年にかけて奥羽本線を走る普通列車を数回利用しましたが、座席はいずれも首都圏の通勤電車と変わらない「長いす」だったため、このボックスシートを見てとてもうれしくなりました。

子供の頃、夜行列車で帰省する時には、このような狭い座席に一晩中座っていなければなかったわけで、苦痛だったに違いありません。それなのに「もう一度乗ってみたい」などと思うのですから、勝手なものです。

私の場合、帰省は常に家族と一緒でしたから、ボックスシートは常に「貸し切りの動く食卓」のようなものでした。このような狭い空間に知らない人と向き合うとなれば、私の印象はかなり違ったかもしれません。

正直に言うと、初めて寝台を利用した時には「もう夜行の座席には絶対乗らない」と、心に誓ったものでした(苦笑)。

それにしても、空席だらけのボックスシートの寂しいこと。ボックスシートだけでなく、列車全体がほとんど「貸し切り」状態でした。

[旅メモ]岩館駅

2009-07-19 10:25:26 | 続・だからわたしは北国へ

五能線「岩館駅」です。

子供の頃、夏休みに帰郷した際の「海水浴」といえば、岩館駅から長い坂道を下った場所にある岩館海岸でした。

砂浜はあまり広くなく、ごつごつした岩からなる磯がほとんどなのですが、そこで泳いだり、遊んだり。昭和30~40年代にかけての夏の岩館海岸は、おそらく今では考えられないような人出だったと思います。

岩館駅から海岸へ続く道には、海の家やおみやげやさんが並んでいました。昔はビーチサンダルがなく、海の家で使い捨ての「麦わら草履」を買うのが「海水浴前の儀式」でした。そういえば、私が生まれて初めて「冷やし中華」を食べたのも、岩館海岸の海の家だったと思います。

実は、この岩館海岸へは、今から30年以上も前、私が二十歳の夏に東京の高校時代の友人4人と一緒に出かけたことがあります。

夏休み前に「みんなでどこかへ行こう」という話になったのですが、出てくる行き先のどれもが「珍しくない、平凡すぎる」ということで却下。話し合いに飽きた私が「思い切り田舎にあるキレイな海を知っている」と言い、上野(車中泊)~東能代~岩館(2泊)~大館~十和田湖(1泊)~青森(車中泊)~上野というコースが決定したのです。

私は外せない予定が入り、彼らが岩館海岸の民宿で一泊した翌日に合流しました。上野発の急行「津軽」に乗り、東能代駅で五能線に乗り換えて岩館駅に到着。

駅前の坂道からの風景を見た私は、「海以外に遊ぶ場所もないこんなところに連れてきてしまい、連中は怒っているに違いない」と確信したものです。

ところが、民宿へ到着してみると、彼らの機嫌のよいこと。一日遅れできたこのツアーの企画者である私は大歓迎されました。

ただし、私が大歓迎された理由は「岩館海岸」ではなく、「同じ民宿に、東京からきた女子高生グループが宿泊していた」からでした。

奥手の彼らにしては珍しく、しっかりと連絡先を交換し、その年の秋には彼女たちの高校の学園祭に招かれたそうですが、それ以上の進展はなかったようです。

遅れて合流した私は、「彼女たち」を一人も知りませんが、旅行中は「あの子がいい、いやこっちだ」という「彼女たちの話」ばかりを聞かされることになりました。

もし、彼女たちが岩館海岸の同じ民宿に泊まっていなかったら、旅行を企画した私は、友人たちから大ひんしゅくを買っていたかもしれません。

[旅メモ]能代七夕

2009-07-18 19:57:00 | 続・だからわたしは北国へ

7月5日、東能代で「あけぼの」を下車し、後からくる「リゾートしらかみ」に乗車する予定でしたが、一足早く五能線で隣駅「能代」へ行ってみることにしました。

能代は私の生まれた街、今回が約18年ぶりの「帰郷」となります。

能代に住んでいた頃の記憶はあまり残っていませんが、「能代七夕」だけは、父がそのお囃子の笛を吹いていたこともあって、上京してからも私と故郷を結ぶ特別な存在でした。

あの哀愁を帯びたお囃子は、今でも頭の中でプレイバックすることができます。小学生の時には、父をまねようとして、その笛を買ってもらったこともありましたが、結局吹けるようにはなりませんでした。

夏休みに帰郷した時の最大の楽しみであり、高校生の時には当時はやっていた「生録」をしに、急行「津軽」で一人旅をしたこともあります。

同じく高校生の時には、「能代七夕」が何年か続けて「大銀座祭り・光のパレード」に招かれたことがありました。その際には、毎回、行列について銀座を一周した記憶があります。

写真は一時間程度の途中下車の際に、駅周辺で見かけた光景です。美しく勇壮な灯籠の大きな写真を見て、胸騒ぎにも似た感情の盛り上がりを感じました。

一方で、私の気持ちの盛り上がりとは逆に、駅近くの商店街の多くの、いやほとんどの店舗のシャッターはおろされたままでした。

「懐かしさ」を追いかける旅先で突きつけられる「甘美な過去の記憶と、現実のギャップ」。今回の旅でもそれを思い知らされました。

[旅メモ]東能代機関区跡

2009-07-07 22:20:46 | 続・だからわたしは北国へ

7月5日下り「あけぼの」を下車した東能代駅の秋田寄りに残された「東能代機関区」跡と思われる風景です。

私の記憶が正しければ、かつてこの場所には京都・梅小路機関区のような扇形の機関車庫があり、その前にターンテーブルがあったはずです。中央のクリーム色にペイントされた枠組みのようなものが、ターンテーブルの跡のような気がします。

昭和36年春、私たち家族は父の待つ東京へ向かいました。JR時刻表復刻版「1961年9月号」で調べたところ、秋田発8時52分の上野駅急行「鳥海」を利用したようです。

急行「鳥海」に乗車するため、母、弟、私の三人は、二ツ井駅発5時59分発の一番列車に乗車。そして6時23分、この東能代駅で父の母=祖母が合流。4分間の停車時間中に、祖母を見送った叔父や叔母から、車窓越しに餞別やおみやげをもらったことを覚えています。車窓を開け閉めすることなど、今では考えられませんが....。

その後も、夏休みに帰郷する際に車窓から見るこの駅のターンテーブルが、私にとって「故郷のランドマーク」でした。

[旅メモ]あけぼの1号車最後尾からの出発風景

2009-07-06 21:34:45 | 続・だからわたしは北国へ




34時間弾丸ツアーを終えた今日、急に決めたこの旅のために先延ばしにしてしまった「やるべきこと」や「考えるべきこと」からの「逆襲」を受けています(苦笑)。

この動画は、上野駅13番線ホームから下りあけぼのが出発する際に、1号車(レディースゴロンとシート)最後尾から、奥様が撮影したものです。

時間が経つに連れホームの人影もなくなり、カメラに映るものは一本の線路だけ。最後に残された「上野発青森行き夜行列車」にふさわしい出発光景のような気がしました。