私の三丁目

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と共によみがえるあの頃、そして今

最初から「3D」でした

2011-01-24 21:40:33 | 映画「三丁目の夕日」

映画「ALWAYS 三丁目の夕日 '64」は「3D」で制作されますが、実は第一作から「3D」だったのをご存じでしょうか?

上の写真のメガネを利用すれば、第一作から「3D」で DVD を鑑賞できます....というのはウソです(笑)。

「ALWAYS 三丁目の夕日」豪華版 DVD の特典「昭和玉手箱」には 5 枚の立体写真と「特製立体眼鏡」が入っています。「3D」ではなく、「立体」というのが、昭和の趣でいいですね。

もったいないので、私はまだ開封していないのですが、この「特製立体眼鏡」で「立体写真」を観れば、夕日町三丁目を「3D」で体験できるようです。

第二作「ALWAYS 続・三丁目の夕日」のオフィシャル・フォト・ブックに掲載されている、プロデューサ・安藤広親さんへのインタビューによれば『去年(2006年)の6月9日の DVD 発売日に感謝パーティをして、メインのスタッフにはそこで、もう一度やるからお願いします、と話をしました』(P.97)とのこと。

その時に渡された DVD のパッケージに入っている「立体眼鏡」をみて、スタッフのみなさんは『おぉ、「続・三の」次は、きっと 3D なんだな』と思ったはず、かどうかはわかりませんが(笑)。

しかも、このフォトブックには、なんと「飛び出る! 驚異の立体!! ALWAYS 続・三丁目の夕日 メインセット 3D 写真館」という付録がついており、赤と青のセロファンで作る「3D めがねの作り方」というページまであるのです。


きっと、制作に関わるみなさんは、第一作の時から「いつかは本格的な 3D で、観客をもっとリアルな昭和へ連れて行くんだ」と心に決めていてくれたのかもしれません。

私を含めて、「えっ、ALWAYS が 3D なの?」という、違和感のようなものを感じたファンの方は少なくないようですが、「ALWAYS 三丁目の夕日 '64」が「3D」で制作されるのは、単に時流にのったのではなく「最初から目指していた」ものだったのかもしれません。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日 '64」公開まで、あと何百日でしょうか。待ちきれませんね。

ほんとうに「おかえりなさい」

2011-01-20 09:59:00 | 映画「三丁目の夕日」

映画「ALWAYS 三丁目の夕日 '64」制作発表を報じる、スポーツ各紙です。

普段は買うことがないものですから、世の中にこんなにスポーツ新聞があるとは、知らなかったわけではないのですが、改めて驚いてしまいました。

「スポーツニッポン」と「スポーツ報知」、そして「中日スポーツ」が比較的大きな扱いをしていますが、「日刊スポーツ」は、ちょっと控えめな印象です。

同紙は、2007年10月16日の紙面でこんな記事を掲載していましたね(笑)。
(三丁目の夕日「続」で完)

映画「ALWAYS 三丁目の夕日 '64」は、東京オリンピックが開催された昭和39年を舞台に、夕日町三丁目の人々が描かれます。

そうえば山崎監督は、2007年11月の「キネマ旬報」インタビューで、「昭和39年を描いた作品を作ることはあるかもしれない」と答えていました。(キネマ旬報 -- 山崎監督の気になる発言)

昭和33~34年と比較すれば、昭和39年の風景や出来事は比較的記憶に新しいところ。「再現する作業」は、これまで以上に、観客のもっているイメージとの闘いになるかもしれません。

東京オリンピックの開会式は学校もお休みになり、日本中が家でテレビに釘付けでした。父が「今日はオリンピックだから、午後の仕事は休みになった」と会社から早く帰ってきたのを見て、子供心に「オリンピックというのは、そんなに大変なイベントなんだ」と感じたのを覚えています。

今回の作品は、最初から 3D で制作されるのも大きな話題のひとつ。「ん、三丁目が 3D なの?」という気がしないでもありませんが、怒った則文さんがカラダごとガラス戸にぶつかって行くシーンや、ゴジラが夕日町一帯を破壊するシーンなどは、3D で見てみたいような気もします(笑)。ただ、芝居場の場面で 3D の効果が強調されると、ちょっと違和感を感じるかも。

このようなことも含めて、周到に準備されたシナリオと演出、そして VFX で「もう一度、三丁目に帰ってみたい」と思っていた人達の期待を裏切らない作品が作られて行くことでしょう。

公開は2012年前半とのこと。夕日町三丁目の住人のみなさん、ほんとうに「おかえりなさい」。

おかえりなさい

2011-01-13 20:00:31 | 私的「三丁目の夕日」

みなさん、こんばんは。アヒルです。

なんと、8ヶ月ぶりの記事になります。すっかり、ご無沙汰してしまいました。

実は昨年の夏、母が亡くなりました。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の中に見つけた、私の「原風景」の中に常に存在していた人でした。本当は、私の大好きな「お母さん」でした。

あれから半年が過ぎましたが、私はまだ母を失った悲しみの涙を流すことができないでいます。私を気丈(と自分で言ってよいのでしょうか(苦笑))にさせてくれたのは、肉親の狡猾さや、彼らに対する憤りでした。

記録的な猛暑だったあの夏、私と家内は、いや、私たちだけが、母を見送るための儀式や霊園探し、建墓などに多くのリソースを費やしましたが、告別式に遅刻してきた弟の家族は、納骨式に姿を現すことすらしませんでした。誰からもねぎらいの言葉ひとつかけてもらえず、「なぜ、私たちだけが?」という思いが残るとても辛い夏でした。

このような愚痴や恨み言を書き連ねてしまうことがわかっていたから、8ヶ月もの間、ブログや Twitter への書き込みを自制し、おとなしくしていたのですが、やっぱり書いてしまいましたね(苦笑)。

そして今、思うこと。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の中に見つけ、「再会」したと思っていた私の「原風景」は、実は全く別の世界になっていたのではないか、ということ。

六ちゃんを上野駅へ送り届けたあと、鈴木オート一家が見た夕日は、今もまだ50年前と変わらずにキレイなままなのでしょうか?

お父さん達は、鈴木オートのように誇り高く、いつもちょっと無理をして、家族のためにがんばっているでしょうか?

茶川先生のように、思うようにいかない人生でも、決して他人や社会のせいにせず、自らを責める自覚や謙虚さを持っているでしょうか?

ヒロミさんや淳之介のように、誰もがうらやむような「冨」を目の前にしても、自分の思いや愛を貫くことができるでしょうか?

思えば、私が体験したことは、私の周辺だけでおきていることではなく、「現代の日本の縮図」なのかもしれません。

残念ですが、夕日も人々の心も、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の中にみた50年前のそれとは、かなり変わってしまったように、私は感じてしまうのです。

こんな今だからこそ、私はもう一度「三丁目」に帰ってみたい。そして、自分や身の回りで今起きていることを、見つめ直してみたい。

「もう一度、あの暖かく、懐かしい人達に会いに、あなたの三丁目に帰ってみませんか?」、「おかえりなさい」、いつか、誰かがそんな言葉をかけてくれることを願っています。