本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変当日、家康と順慶は本能寺に着けない!?

2017年07月10日 | 歴史捜査レポート
 本能寺の変の当日に徳川家康と筒井順慶は本能寺へ呼び出されていた。
 これは私の「信長による家康討ち」の証拠となる核心部分です。
 これを真っ向から否定する書き込みがamazonのカスタマーレビューにありました。その要点は以下のものです。
 『茶屋由緒記』によると6月2日、家康一行は堺を出発しますが、本能寺までは約60kmの距離があるため当日中に到着するのは困難です。
 『多聞院日記』によると筒井順慶は6月2日朝に京都へ向かい出陣しています。京都までは約45kmなので通常行軍で6月3日の到着です。


 残念なことに、この指摘を行った方は軍隊の行軍の速度を勘違いしているようです。大軍があまり整備されていない道を行軍するのであれば、一日に20~30kmです。ところが大軍ではなく、もっと少ない人数で移動する場合、しかも整備されている幹線道では一日の移動距離はもっと長くなります。実例でご紹介します。

天正六年十月一日『信長公記』
 十月朔日、住吉より御帰洛。安見新七郎所に暫く御休息なされ、二条御新造に至って御帰り。 
 信長は堺より一里(4km)ほど近い住吉から途中で休息して京都の二条まで一日で移動しています。

天正十年五月十七日『信長公記』
 安土で光秀・順慶らに出陣命令が下され、暇を与えられて何れも本国へ帰った。
天正十年五月十七日『多聞院日記』
 順慶は夕刻に大和に帰国した。
 順慶は京都より直線距離で約25kmも遠く、約65kmある安土から大和まで一日で移動しています。

 当日の家康一行の行程からも確認ができます。
天正十年六月二日『茶屋由緒記』
 当日朝、京都で本能寺の変の勃発を知った茶屋四郎次郎は堺へ向かって報告に走り、同様に当日朝、堺を出発した家康一行の先発本多忠勝と枚方で出会い、二人で戻って飯盛山付近で家康と合流した。相談して帰国することとなり、その日信楽まで行った。

 直線距離で京都・枚方間は約31km、枚方・堺間は約24km、枚方・信楽間約21km(実行程は4割増しぐらいか)。京都・堺間が平地であるのに対して、枚方・信楽間は山地なので移動可能距離は当然短くなります。
 こういったデータから見ると「約60kmの距離があるため当日中の到着は困難」という指摘には妥当性がありません。現に、茶屋四郎次郎と家康一行はその日の内に巡り会うことができ、さらに信楽まで、その日の内に到着しているのです。

 なお、当然、馬に騎乗しての移動と考えられます。『中世の旅』N.オーラー著には下記の記述があります。ヨーロッパの事例ですが、ほぼ似たようなものと思われます。
 行軍1日の行程は普通の情況の諸兵連合の大部隊では昼夜約24kmを標準とする。 騎兵部隊はその行程が約40―60kmに達し、小部隊の場合は80kmを突破する。


 >>> 問題のamazonカスタマーレビュー
    (本当にこのレビューが「参考になる」ですか?
 >>> 武田信玄重臣は信長による家康討ちを予測していた!

コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明智光秀の謎に迫る「愛宕百... | トップ | 上杉家御子孫による「赤穂事... »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お答えいたします (太田昇)
2017-07-12 21:54:02
Amazonに投稿しました太田でございます。ご反論、長らくお待ちしておりました。

長距離の移動記録を提示されるのであれば、天正三年十一月に武田による岩村城攻撃を京都で聞いた信長が夜に出発し、翌日に100km以上離れた岐阜に着いた記録はいかがでしょうか。本圀寺の変の際も悪天候の中、岐阜から2日で上洛しています。
「勘違いしているようです」と書かれましたが上記のように少人数で何十kmも移動した記録を把握していますので勘違いはしていないことをお伝えしておきます。少人数なら移動距離が長くなることも理解しています。

>なお、当然、馬に騎乗しての移動と考えられます。
>騎兵部隊はその行程が約40ー60kmに達し、小部隊の場合は80kmを突破する

家康一行は堺から全員が騎乗して騎馬隊のように駆け抜けたというわけですね。それができるなら、計算上は徒歩でも時速5kmで12時間歩けば60km移動するわけです。無理に騎乗させなくても到着は可能ではないでしょうか。

■家康が到着できるかどうかについて

私がレビューで「当日中に到着するのは困難です」と書いた理由を説明しておきます。

家康一行には約30名分の荷物、山賊に撒いたという金、堺で面会した人々から贈られたであろう献上品、そしてその荷物を運ぶための従者または荷馬、重臣には付き人がいるような状況を思い浮かべています。荷物があるので騎馬隊のようには進めないと考えます。
『家忠日記』、『信長公記』によると一行が安土へ向かう際、岡崎〜近江番場の約100km間を3日かけて移動しました。平均すると移動距離は1日30〜40kmになります。それが1日60kmとなると倍近い移動速度が必要になるため、荷物もあることから難しいと判断し、「困難」と書いたのです。私は実際の行程を調べた上でこのような結論を出しています。そこまで批判されるほどおかしな考え方はしていないと思います。

伊賀越えの例ですがこれは別の話です。金目の物以外の荷物を捨て身軽になり、多少疲れても休まず一気に移動距離を延ばすので通常の移動とは同列に考えられません。紹介された 『茶屋由緒記』の場面は信楽まで70km程度進んだようですし、 さらに『石川忠総留書』の6月4日は馬移動はできないと思われる山地区間にもかかわらず同じく70km程度移動した後にその日に伊勢湾を渡っています。この記録があるからといって、荷物が多い中で同じことができるかと言えばできないでしょう。状況が違うので比較はできないのです。また信長の移動例にしても身軽でしょうから、移動距離が長いのは当然です。

■家康の行程について

仮に、実は荷物はあまり持っておらず一行全員が馬移動で当日に京都へ到着したと考えてみましょう。騎兵部隊の60km前後というのは、これは朝から日没まで一日かけて移動した距離です。従って京都の到着時刻は日没頃ということになります。しかしこれだと茶器を準備した信長を一日中待たせることになるのです。
6月2日に上洛せよとの命令が出たなら、前日には出発して京都付近で一泊、翌朝に本能寺へ入る行程をとるのが私は普通だと思います。
(実はレビューで書いたこの行程、京都付近までの長距離を1日で移動させています。これは前々日の5月29日はまだ上洛命令が届いておらず出発できないためです。6月2日朝に上洛するには前日の6月1日に長距離移動しておく以外に方法がないのです。酷な命令です。)

この家康の移動日程について、説明をお願い致します。"なぜ家康は上洛日の6月2日朝にまだ堺にいるのか。"
長谷川秀一がついているので家康が遅延行動をすることはできません。私だけでなく、この点に疑問を持った読者も多いと思うのです。家康は何時に京都へ到着する予定だったのでしょう?

答えを用意されていると思いますので細川忠興についてもお尋ねします。
100km離れた城にいる武将へ、明後日に軍隊を連れてこちらへ来いと当時の人が命令を出すことはありません。この点はいかがでしょうか。
返信する
回答いたします (明智憲三郎)
2017-07-14 11:43:10
 「徒歩でも時速5kmで12時間歩けば60km移動」できるとお書きのように、家康は早朝に堺を出発していますので、たとえば午前5時として、夕刻(午後5時)に着きますので、途中一泊の必要性がないです。40人ほどが宿泊するのは、かなりの用意のいることです。当然避けようとするでしょうし、『茶屋由緒記』やその他の史料でも宿泊を想定した記述はありません。
 また、上洛の命令は五月二十七日までに出されていたとみています。織田信忠が信長上洛の知らせを得て、予定を変更して上洛する旨の森乱丸宛の書状を書いたのが二十七日、奈良興福寺多聞院の僧英俊が信長の上洛予定を知ったのが二十八日。これは筒井順慶からの情報とみられます。したがって信忠・順慶には二十七日までには知らせがあったと考えられます。信長が実行できないような命令を下すわけはありませんので。
返信する
Re:回答いたします (太田昇)
2017-07-16 03:35:52
そうですよね、「二十九日、信長は上洛して本能寺へ入った。そして上洛のお触れが出された」。これでは細川忠興が到着できないのです。誰かが指摘をしないとずっとこのままでしょうから。対処法としては命令を出す日を早めるしかありませんね。

60kmが困難というのはそれまでの移動記録から判断した私の感覚なのでどうしようもありませんよ。(レビューの書き方が納得されないようなので少し表現を改めますが)時々使者の移動距離を調べますがだいたいこのくらいです(緊急時は別)。
荷物のある集団の家康一行が使者と同じペースで進むなら大変だと思います。それまで接待三昧だったのに帰りは扱いが違うなと。
(計算上の話は、全員が騎馬隊のように走るならあまり荷物はないわけですから、それなら使者のように歩いても到着できますよ、という意味です。)

油断させないといけない家康を夜に京都へ戻らせて茶器披露をするとは、どうも不思議な計画です。でもこれが真実ということでしょう。夜に殺害して筒井順慶・細川忠興を合流させる計画だった。誰も知らない計画の一部だと思うので解明が進んだと思います。ただ上洛日を6月3日や4日に変更すれば、移動の問題も解消して自然な計画が立てられると思うのですが。
それでは失礼いたします。
返信する
Unknown ()
2017-07-18 10:49:58
二十九日、信長は上洛して本能寺に入った。そして、「上洛のお触れ」が出された。といっても、実際は本能寺に入ってから上洛のお触れが出されたのではなくて、前日までにそのお触れがされていたわけですね。信長公記には6/2の記述が見当たらなかったので筒井順慶の書状からだったかと思いますが、あ、読み返すと、興福寺多聞院の英俊が二十八日には知ってますから、前もって上洛のお触れは出されていると。つまり太田牛一の書き方が悪かったですね。
返信する
お触れと通知は別物 (明智憲三郎)
2017-07-19 11:23:35
牛一の書いた「お触れ」と信長から関係者への通知は別物と考えた方がよいかもしれません。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史捜査レポート」カテゴリの最新記事