前回は光秀が将軍足利義晴・義輝父子に従って近江朽木谷にいた可能性を示しました。
★ 光秀前半生の歴史捜査:鍵は朽木谷!
もう少し前のこともわからないかと捜査を進めています。まだ確たることがわかってはいませんが、見えてきたことをご報告いたします。
『尊卑分脈』明智系図に注目!
系図はどれも出鱈目というのが通説です。というのも、ある時点である人が自分の都合のよいように系図を作るということが頻繁に行われたからです。ところが、中には比較的信憑性の高い系図もあります。そのひとつが『尊卑分脈』です。この系図は作成された時期や作成者がはっきり分っているのです。
★ Wikipedia「尊卑分脈」
この中に「明智系図」があるのですが、ここに書かれた系統は光秀が書かれた系図としていろいろな形で出てくる「土岐明智系図」の系統とは違っており、頼重という人物から枝分かれした別系統が書かれています。
何故、この系図に注目するかというと、ここに出てくる政宣(まさのぶ)、光重(みつしげ)という人物が連歌史料に出てくることと政宣の父の玄宣も九代将軍義尚(よしひさ)主宰の連歌興行に招かれるなど連歌界の名士だったことです。加えて玄宣・政宣父子は当時の幕府の役人名簿に書かれており足利将軍の奉公衆でした。
つまり、光秀とは「奉公衆」「連歌」というキーワードが一致するのです。光秀が連歌に長けていて、しばしば連歌の会を催し、著名な連歌師とも親交があったことはよく知られていることです。
この系図は政宣、光兼(光重の子)で止まっています。この先に光秀がつながっていたのではないかという仮説が立ちます。
(以上の推理には学研『俊英 明智光秀』に津田勇氏が書いた「光秀の遺児が握る明智系図再構築の鍵」を参考にしています)
それでは政宣、光兼がどういう時代の人物かということになります。政宣の父・玄宣を連歌興行に招いた将軍義尚は1489年に陣中で病没しました。この後、足利将軍家は系統が入り組んだ抗争の時代に入ります。それが正に戦国時代の始まりだったのです。本能寺の変から遡ること約九十年前から戦国時代は始まっていたのです。将軍職は義澄・義晴・義輝・義昭とつながった系統と、これに対抗して担ぎ出された義材(よしき)・義稙(よしたね)・義栄(よしひで)とめまぐるしく入れ替わりました。政宣、光兼はこういった時代の渦中にいたわけです。
★ Wikipedia「足利将軍家」
光秀が義晴・義輝・義昭側にいたことを考えれば、当然、政宣・光兼も義澄・義晴方にいたのでしょう。都落ちした将軍と共に流浪したのかもしれません。こうして歴史の表舞台に出ることもなく消えてしまった政宣・光兼と光秀との間のミッシング・リンクをいずれ明らかにしたいものです。
<<続く>>
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この中に「明智系図」があるのですが、ここに書かれた系統は光秀が書かれた系図としていろいろな形で出てくる「土岐明智系図」の系統とは違っており、頼重という人物から枝分かれした別系統が書かれています。
何故、この系図に注目するかというと、ここに出てくる政宣(まさのぶ)、光重(みつしげ)という人物が連歌史料に出てくることと政宣の父の玄宣も九代将軍義尚(よしひさ)主宰の連歌興行に招かれるなど連歌界の名士だったことです。加えて玄宣・政宣父子は当時の幕府の役人名簿に書かれており足利将軍の奉公衆でした。
つまり、光秀とは「奉公衆」「連歌」というキーワードが一致するのです。光秀が連歌に長けていて、しばしば連歌の会を催し、著名な連歌師とも親交があったことはよく知られていることです。
この系図は政宣、光兼(光重の子)で止まっています。この先に光秀がつながっていたのではないかという仮説が立ちます。
(以上の推理には学研『俊英 明智光秀』に津田勇氏が書いた「光秀の遺児が握る明智系図再構築の鍵」を参考にしています)
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学研 |
それでは政宣、光兼がどういう時代の人物かということになります。政宣の父・玄宣を連歌興行に招いた将軍義尚は1489年に陣中で病没しました。この後、足利将軍家は系統が入り組んだ抗争の時代に入ります。それが正に戦国時代の始まりだったのです。本能寺の変から遡ること約九十年前から戦国時代は始まっていたのです。将軍職は義澄・義晴・義輝・義昭とつながった系統と、これに対抗して担ぎ出された義材(よしき)・義稙(よしたね)・義栄(よしひで)とめまぐるしく入れ替わりました。政宣、光兼はこういった時代の渦中にいたわけです。
★ Wikipedia「足利将軍家」
光秀が義晴・義輝・義昭側にいたことを考えれば、当然、政宣・光兼も義澄・義晴方にいたのでしょう。都落ちした将軍と共に流浪したのかもしれません。こうして歴史の表舞台に出ることもなく消えてしまった政宣・光兼と光秀との間のミッシング・リンクをいずれ明らかにしたいものです。
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