【2010年5月2日追記・改定】
愛宕百韻の表(おもて)の意味を思い浮べながら、光秀の発句の主題である土岐氏についての知識を整理してみましょう。
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
脇句と第三は次の句でした。
脇句 水上(みなかみ)まさる庭の夏山 行祐
第三 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
光秀の発句が降り注ぐ五月雨を詠んだのに対して、行祐(ぎょうゆう)も紹巴(じょうは)も五月雨を集めた「水の流れ」に関する句を詠んでいます。
ということは、「土岐氏の流れ」に関係しているように思えます。そこで、土岐氏の流れ、つまり土岐氏の歴史を調べる必要があります。土岐氏研究の第一人者、谷口研語氏の書いた『美濃・土岐一族』を参考にして、関係しそうな知識を整理してみます。
★ 土岐氏解説集
土岐氏は八百数十年前、源頼光(よりみつ)の子孫が美濃(現在の岐阜県)の土岐郡に土着して土岐氏を名乗ったところから始まる。美濃を基盤に発展し、南北朝動乱の初めに美濃守護となってから歴代美濃守護を継承して戦国時代に至った。三代守護頼康(よりやす)は尾張・伊勢の守護も兼ねて土岐氏の最盛期を迎えた。
その間、土岐氏は濃尾平野一帯に勢力を広げ、その土地の地名を名字とする百余家に分派した。分派した家は土岐明智氏のように土岐の名を捨てず一族としての強い結束力を誇った。
その象徴が「土岐桔梗一揆」と呼ばれた一族の軍団であり、足利尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)を支える最強の大名として「土岐滅ぶれば足利滅ぶ」とまでいわれた。
ところが、義詮を継いだ三代将軍義満(よしみつ)は足利氏への中央集権化を図り、諸大名の勢力を削ぐ政策に打って出た。土岐氏も一族の内紛を誘発され、四代康行(やすゆき)の幕府への反乱に発展した。康行は幕府の追討を受けて没落(1390年)。
土岐氏はかろうじて美濃守護を幕府の推す土岐池田氏が継承したが、実権は守護代の斉藤氏に奪われてしまい、結束力を誇った土岐桔梗一揆も崩壊してしまった。1552年斎藤道三によって最後の守護頼芸(よりよし)が追放され土岐氏は完全に没落して歴史の表舞台から消えてしまった。
以上が要約ですが、注目していただきたいのは土岐氏の最終的な没落が1552年。光秀が信長に取り立てられて坂本城主となる20年前。本能寺の変(1582年)のわずか30年前です。本能寺の変の当時、世の中では土岐氏没落がまだ生々しい記憶だったということです。
さて、これで4回に渡って「愛宕百韻の解読捜査」を書いてきました。光秀の本当の発句の意味、連歌(れんが)の規則から考えて光秀発句の意味を継承した句の特定、その句の表(おもて)の意味の解釈、それを踏まえての土岐氏の歴史の確認。これで全ての情報がそろいました。
★ 愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
★ 愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
四百年間解くことのできなかった「愛宕百韻の謎」がこれだけの材料で私には全て解けました。皆さんにも解けるはずです。この4回に書いた以外の知識は全く不要です。是非皆様にも推理していただきたいと思います。「真面目に必要な情報を整理したら誰にでも歴史の真実を解くことができる」という、私の見い出した「真実」を実感していただきたいからです。ダヴィンチ・コードより難しいと思われてきた光秀コード「愛宕百韻」を誰もが解くことができるのです。四百年間の歴史の謎を皆さん自身の手で解くことができるのです。是非、是非、その感動を味わってください!
皆さんの推理で解き明かした「脇句と第三の裏の意味」をお気軽にコメントにご投稿ください。決して論評などいたしませんのでご安心ください。次々回の6回目の記事で私の解釈を公開します。見比べていただいて歴史捜査というものの楽しみをお感じいただければ幸いです。こういう真面目なレベルでの歴史の「ワイワイ」はとても楽しいことと思います。重ねて、是非ワイワイにお気軽にご参加ください。
<<続く>>
★ 愛宕百韻の解読捜査シリーズ
①捜査開始宣言
②標的の確定
③表の意味解釈
④土岐氏の流れ
⑤完全解読の意義
⑥遂に完全解読
愛宕百韻の表(おもて)の意味を思い浮べながら、光秀の発句の主題である土岐氏についての知識を整理してみましょう。
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
脇句と第三は次の句でした。
脇句 水上(みなかみ)まさる庭の夏山 行祐
第三 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
光秀の発句が降り注ぐ五月雨を詠んだのに対して、行祐(ぎょうゆう)も紹巴(じょうは)も五月雨を集めた「水の流れ」に関する句を詠んでいます。
ということは、「土岐氏の流れ」に関係しているように思えます。そこで、土岐氏の流れ、つまり土岐氏の歴史を調べる必要があります。土岐氏研究の第一人者、谷口研語氏の書いた『美濃・土岐一族』を参考にして、関係しそうな知識を整理してみます。
★ 土岐氏解説集
土岐氏は八百数十年前、源頼光(よりみつ)の子孫が美濃(現在の岐阜県)の土岐郡に土着して土岐氏を名乗ったところから始まる。美濃を基盤に発展し、南北朝動乱の初めに美濃守護となってから歴代美濃守護を継承して戦国時代に至った。三代守護頼康(よりやす)は尾張・伊勢の守護も兼ねて土岐氏の最盛期を迎えた。
その間、土岐氏は濃尾平野一帯に勢力を広げ、その土地の地名を名字とする百余家に分派した。分派した家は土岐明智氏のように土岐の名を捨てず一族としての強い結束力を誇った。
その象徴が「土岐桔梗一揆」と呼ばれた一族の軍団であり、足利尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)を支える最強の大名として「土岐滅ぶれば足利滅ぶ」とまでいわれた。
ところが、義詮を継いだ三代将軍義満(よしみつ)は足利氏への中央集権化を図り、諸大名の勢力を削ぐ政策に打って出た。土岐氏も一族の内紛を誘発され、四代康行(やすゆき)の幕府への反乱に発展した。康行は幕府の追討を受けて没落(1390年)。
土岐氏はかろうじて美濃守護を幕府の推す土岐池田氏が継承したが、実権は守護代の斉藤氏に奪われてしまい、結束力を誇った土岐桔梗一揆も崩壊してしまった。1552年斎藤道三によって最後の守護頼芸(よりよし)が追放され土岐氏は完全に没落して歴史の表舞台から消えてしまった。
以上が要約ですが、注目していただきたいのは土岐氏の最終的な没落が1552年。光秀が信長に取り立てられて坂本城主となる20年前。本能寺の変(1582年)のわずか30年前です。本能寺の変の当時、世の中では土岐氏没落がまだ生々しい記憶だったということです。
さて、これで4回に渡って「愛宕百韻の解読捜査」を書いてきました。光秀の本当の発句の意味、連歌(れんが)の規則から考えて光秀発句の意味を継承した句の特定、その句の表(おもて)の意味の解釈、それを踏まえての土岐氏の歴史の確認。これで全ての情報がそろいました。
★ 愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
★ 愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
四百年間解くことのできなかった「愛宕百韻の謎」がこれだけの材料で私には全て解けました。皆さんにも解けるはずです。この4回に書いた以外の知識は全く不要です。是非皆様にも推理していただきたいと思います。「真面目に必要な情報を整理したら誰にでも歴史の真実を解くことができる」という、私の見い出した「真実」を実感していただきたいからです。ダヴィンチ・コードより難しいと思われてきた光秀コード「愛宕百韻」を誰もが解くことができるのです。四百年間の歴史の謎を皆さん自身の手で解くことができるのです。是非、是非、その感動を味わってください!
皆さんの推理で解き明かした「脇句と第三の裏の意味」をお気軽にコメントにご投稿ください。決して論評などいたしませんのでご安心ください。次々回の6回目の記事で私の解釈を公開します。見比べていただいて歴史捜査というものの楽しみをお感じいただければ幸いです。こういう真面目なレベルでの歴史の「ワイワイ」はとても楽しいことと思います。重ねて、是非ワイワイにお気軽にご参加ください。
<<続く>>
★ 愛宕百韻の解読捜査シリーズ
①捜査開始宣言
②標的の確定
③表の意味解釈
④土岐氏の流れ
⑤完全解読の意義
⑥遂に完全解読
僕はこういう謎解きは全くもって疎いものですから
先生の名回答を期待しています。
そう言えばこの間、京都東山の首塚に行ってきました。
光秀饅頭とても美味しかったです。
明日、愛宕百韻の解読結果を公開しますので、お楽しみに。
4つの句の解釈、あまりにも飛躍し過ぎておりませんで
しょうか。
光秀・土岐一族の苦境、危機と捉え前提して、解釈された
ものですが、、、
その解釈が詠んだ人の言葉とその心、イコールとなるで
しょうか。 いわば
大変な読み込み拡大解釈としか、、、、
しかも、7.7の行祐、5.7.5の紹巴の句の表の言葉を表現している心とのギャップがあまりにもあり過ぎて、
とても正当、正しい解釈とは思えません。