本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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もし、信長による家康討ちが成功していたら?

2010年05月04日 | 歴史捜査レポート
 >>> 武田信玄重臣は信長の家康討ちを予測していた!
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 拙著『本能寺の変 431年目の真実』をまだお読みでない方がこのタイトルを見たら、一体何のことかと思われるでしょう。私の歴史捜査の結果、行き着いた衝撃の答のひとつが、「本能寺の変とは、そもそも信長が家康を本能寺で討ち取る事件だった」ということです。それがどのような証拠で裏付けられるかは拙著をお読みください。本能寺を実際に襲撃した光秀の兵達が「信長ではなく家康を討つものとばかり思っていた」と証言しているのはその一例です(『本城惣右衛門覚書』『フロイス日本史』)

 ここでは、光秀が信長の計画を逆手にとることなく、計画通りに家康を本能寺で討ったとしたら、その後の歴史がどのように展開したのかを推理してみたいと思います。実際に起きなかったことを推理するのは「歴史捜査」の範疇を逸脱することかもしれませんが、論理的な思考の実験として試みてみます。
 ★ 真実解明の手法「歴史捜査」
 ★ 歴史捜査レポートとは?

 まず、当日(天正十年六月二日)の出来事から見て行きましょう。
 信長に呼び出された家康一行三十名ほどが早朝に堺を出発して本能寺へ到着します(途中まで来ていたことは『茶屋由緒記』に記載されています)。信長は一行を大歓待し、安土から運んできた大量の茶器の逸品を披露します(フロイス『日本史』に茶器のことが書かれています)。家康たちが鑑賞しているすきに信長たちは座をはずし、家康一行だけが取り残された形になります。
 そこを、丹波亀山城から上洛した光秀軍が襲撃し、家康を討ちとります。重要なことは、ここで討ち取られたのが家康だけでなく家康重臣がことごとく討ち取られたことです。酒井忠次石川数正本多正勝本多忠勝榊原康政大久保忠隣などそうそうたる重臣が皆失われてしまいます。小姓の井伊万千代も失われ、後に徳川四天王と呼ばれた酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の全員が死にます。これにより本国(三河・遠江)に残された家康家臣達は指揮命令者を失い、はなはだしく戦闘力を失います。
 その後、光秀軍は上洛してきた筒井順慶軍・細川忠興軍と合流し、家康領侵攻軍を編成して三河へ進軍します(順慶が上洛途中であったことは『多聞院日記』に書かれています)。信長一人を討つために何故光秀が一万人を越える全軍を本能寺へ連れてきたのかは謎とされてきましたが、このように考えれば謎ではなく当然だったのです。
 一方、甲斐に駐屯する織田信忠の軍勢は本能寺の変(信長が家康を討ち取ったという)成功の連絡を受けると直ちに国境を越えて家康領の駿河・遠江に侵攻します。信忠軍と光秀軍に挟み撃ちとなった家康家臣軍は次々と敗れ、瞬く間に信長の軍門に降ります。光秀・順慶・忠興には3ヶ月前の武田攻めの帰路に家康領を軍事視察して戻ってきた際に得た知識が大いに役立ちました。城の位置・規模や渡河のための川の浅瀬などよくつかんでいたのです。
 この電撃的な徳川家壊滅こそ信長の狙った乾坤一擲の大作戦だったのです。孫子の兵法が説く「戦わずして勝つ」の極致です。各地で戦争を展開していた信長にとって徳川家壊滅は絶対に短期決戦で片付けなければならないことです。かつ、織田家の一兵も失うことがなく、徳川家の強兵を無傷で織田家に抱えこむことができたのです。信長は天下統一も済んでいないこの時期に、なぜこのような大勝負に打って出たのでしょうか?「誰もが最善と思う作戦は最善ではない」と孫子は説きます。当然、敵にも読まれてしまうからです。天下統一した後では家康が警戒してしまい討てなくなる。誰もが考えないこの時期だからこそ、この大勝負が成功する。これが信長の考え抜いた作戦です。信長が習熟していた孫呉兵術を知らない人には気が付かない作戦でしょう。
 >>> 信長の知識「孫呉兵術」とは?

 このようにみてくると、重臣をことごとく引き連れた家康の安土訪問と京都・奈良・堺遊覧がいかに危険なものであったかがよくご理解いただけると思います。重臣同伴は信長が命令したものだったはずです。そこへ何故のこのこと家康は出向いたのか?あの用心深い家康が。と考えると私が解き明かした答の蓋然性(がいぜんせい:確からしさの度合)の高さをご納得いただけるのではないでしょうか。家康にはこの危機を乗り越える秘策が既に用意されていたのです。それが光秀との同盟です。光秀にとっては信長討ちの後の政権確立のために家康は欠くことのできない人物だったのです。

 さて、本能寺の変から間をおくことなく、越後では敗色濃厚となっていた上杉景勝が柴田勝家に滅ぼされ、四国では長宗我部元親が織田信孝軍に滅ぼされます。毛利氏はかねて段取りされていたように領土を信長に割譲する条約を結んで和睦します。これでおおむねの天下統一がなされました。残る九州の島津氏や東北の平定は時間の問題でした。
 光秀は家康旧領の三河・遠江・駿河を与えられて移封されます。馴染みのない敵地を治めることになった光秀や家臣団の苦難がここから始まります。徳川家恩顧の三河武士達の反感・怨み・敵意はすさまじいものがあったのです。愛宕百韻に詠んだ光秀の苦難が現実になったのです。
 ★ 愛宕百韻の解読捜査

 光秀旧領の西近江や丹波は織田家直轄領として信長直臣に与えられました。光秀同様に近江に持っていた領地を没収された柴田勝家・羽柴秀吉もそれぞれ越後・中国に移封されました。これにより織田家は甲斐・信濃・近江・丹波・山城・伊勢・伊賀・四国にまたがる広大な直轄領を手に入れ、磐石の態勢を築き上げたのです。信長が構想した第二次構造改革(第一次構造改革で登用した実力派家臣を遠隔地に送り出し京都・安土周辺は織田家で固める)がこれによって完成しました。
 さて、その後はどう展開したでしょうか?天下統一した信長は何をしたでしょうか。
 これは次回のお楽しみにしましょう。
 >>>>続く

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1 コメント

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Unknown (かつお)
2011-11-11 22:35:45
>そこへ何故のこのこと家康は出向いたのか?あの用心深い家康が。

本能寺で待機している信長の側からすると、味方の軍がやってくるまでの待機中は無防備。また必ずしも家康が本能寺に赴くかどうかも光秀が計画通りに家康を暗殺するかも不明。これは秘密警察を使って政敵を始末するようなもので、独裁政権にしても支持基盤が脆弱だったのかなと思う。
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