信長による本能寺での家康討ちが成功していたら歴史はどうなっていたのか?の「歴史捜査」の2回目です。
★ もし、信長による家康討ちが成功していたら?
当然、後に秀吉がやったことを先取りして行ったはずです。刀狩や大名間の戦争の禁止といったことは権力強化のために不可欠なこととしてすぐにやったでしょう。いわゆる「三職推任(さんしきすいにん)」問題については、征夷大将軍となって幕府を開いたのか、秀吉のように関白職についたのか、それはどちらかわかりませんが、信長のことですから合理的に考えて最も天皇・朝廷をうまく利用できる職を選んだでしょう。
★ Wikipedia「三職推任問題」記事
いろいろある中で、これだけは間違いなくやった、と確信をもてるのが「中国征服」です。信長が本能寺で死んでいなければ、間違いなく中国征服へと向かったのです。
なぜならば、信長自身がはっきりとそう語っているからです。
「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」
フロイスはイエズス会総長宛ての報告書にそう書きました。本能寺の変の前年にイエズス会の高官である巡察師ヴァリニャーノが信長を訪問した際、通訳として同行したフロイスが信長から直接聞いた言葉と考えられます。おそらくイエズス会の高官と国家戦略について情報交換した中での言葉ではないかと思われます。(この件については拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』の「信長の中国征服計画」の節に詳しく書きましたので参照してください)
★ Wikipedia「イエズス会」記事
★ Wikipedia「フロイス」記事
★ Wikipedia「ヴァリニャ-ノ」記事
中国征服は信長や秀吉の個人的な征服欲に帰する議論が多いですが、私はそうは見ません。土地の授受により主従関係が成立していた封建制国家においては報奨として家臣に与える新たな土地が必要になります。軍事力のある国家はその解決を他国侵略によって図ったのです。こういう政治的構図でとらえるべきです。当時のスペイン・ポルトガルが正にその典型でした。国内統一・祖国回復を武力によって達成した両国はその武力を海外植民地の獲得に向けました。いわゆる大航海時代です。こういった情報はイエズス会高官から信長に当然もたらされていたでしょう。信長には「よい見本」となったのです。
★ Wikipedia「大航海時代」記事
さて、それでは信長はどのような形で中国征服を果たそうとしたでしょうか?秀吉のように朝鮮を通って中国に攻め込もうとしたのでしょうか、それとも海を渡って直接中国に攻め込むつもりだったでしょうか。
★ Wikipedia「秀吉の朝鮮侵略」記事
★ 日本と朝鮮半島2000年(深く知るべき歴史)
先ほどのフロイスの文章を読むと「朝鮮」という言葉はなく、大艦隊を編成して直接中国へ攻め込む策を考えていたことがわかります。信長はその準備を着々と進めていたのです。
何と言っても、まず安全に中国の目的地に着くための艦船と航海士が必要となります。信長はそれを確保するためにイエズス会を利用しました。イエズス会は日本の次に中国への布教を狙っていました。征服後の中国での布教許可と引き換えに信長はイエズス会及びその背後にあるポルトガルやスペインの力を利用しようとしたのです。当時、フィリピンにはスペイン総督がおり、遠く中南米までの定期航路が開設されていました。信長にとっては垂涎の的だったはずです。
信長がイエズス会を庇護したのは信長が新奇なものを好むからという、これまた個人的な理由にされていますが、それも当らない議論です。信長は実利を考えてイエズス会を庇護していたのです。
★ Wikipedia「フィリピン総督」記事
さて、次回は侵攻軍の部隊編成や中国征服後の支配体制などについて歴史捜査を行おうと思います。乞うご期待!
>>>>続く
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
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★ もし、信長による家康討ちが成功していたら?
当然、後に秀吉がやったことを先取りして行ったはずです。刀狩や大名間の戦争の禁止といったことは権力強化のために不可欠なこととしてすぐにやったでしょう。いわゆる「三職推任(さんしきすいにん)」問題については、征夷大将軍となって幕府を開いたのか、秀吉のように関白職についたのか、それはどちらかわかりませんが、信長のことですから合理的に考えて最も天皇・朝廷をうまく利用できる職を選んだでしょう。
★ Wikipedia「三職推任問題」記事
いろいろある中で、これだけは間違いなくやった、と確信をもてるのが「中国征服」です。信長が本能寺で死んでいなければ、間違いなく中国征服へと向かったのです。
なぜならば、信長自身がはっきりとそう語っているからです。
「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」
フロイスはイエズス会総長宛ての報告書にそう書きました。本能寺の変の前年にイエズス会の高官である巡察師ヴァリニャーノが信長を訪問した際、通訳として同行したフロイスが信長から直接聞いた言葉と考えられます。おそらくイエズス会の高官と国家戦略について情報交換した中での言葉ではないかと思われます。(この件については拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』の「信長の中国征服計画」の節に詳しく書きましたので参照してください)
★ Wikipedia「イエズス会」記事
★ Wikipedia「フロイス」記事
★ Wikipedia「ヴァリニャ-ノ」記事
中国征服は信長や秀吉の個人的な征服欲に帰する議論が多いですが、私はそうは見ません。土地の授受により主従関係が成立していた封建制国家においては報奨として家臣に与える新たな土地が必要になります。軍事力のある国家はその解決を他国侵略によって図ったのです。こういう政治的構図でとらえるべきです。当時のスペイン・ポルトガルが正にその典型でした。国内統一・祖国回復を武力によって達成した両国はその武力を海外植民地の獲得に向けました。いわゆる大航海時代です。こういった情報はイエズス会高官から信長に当然もたらされていたでしょう。信長には「よい見本」となったのです。
★ Wikipedia「大航海時代」記事
さて、それでは信長はどのような形で中国征服を果たそうとしたでしょうか?秀吉のように朝鮮を通って中国に攻め込もうとしたのでしょうか、それとも海を渡って直接中国に攻め込むつもりだったでしょうか。
★ Wikipedia「秀吉の朝鮮侵略」記事
★ 日本と朝鮮半島2000年(深く知るべき歴史)
先ほどのフロイスの文章を読むと「朝鮮」という言葉はなく、大艦隊を編成して直接中国へ攻め込む策を考えていたことがわかります。信長はその準備を着々と進めていたのです。
何と言っても、まず安全に中国の目的地に着くための艦船と航海士が必要となります。信長はそれを確保するためにイエズス会を利用しました。イエズス会は日本の次に中国への布教を狙っていました。征服後の中国での布教許可と引き換えに信長はイエズス会及びその背後にあるポルトガルやスペインの力を利用しようとしたのです。当時、フィリピンにはスペイン総督がおり、遠く中南米までの定期航路が開設されていました。信長にとっては垂涎の的だったはずです。
信長がイエズス会を庇護したのは信長が新奇なものを好むからという、これまた個人的な理由にされていますが、それも当らない議論です。信長は実利を考えてイエズス会を庇護していたのです。
★ Wikipedia「フィリピン総督」記事
さて、次回は侵攻軍の部隊編成や中国征服後の支配体制などについて歴史捜査を行おうと思います。乞うご期待!
>>>>続く
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