あかない日記

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ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 144 コペル神父   

2018-09-12 | ポーランド紀行

  

ここ修道院でもコルベ神父の関係を知る。


コルベ神父については 
先にアウシュビッツ収容所123(8月21日)触れているが

ヨハネ・パウロ2世から聖人に列せられ

「アウシュビッツの聖者」と讃えられて

ここヤスナ・グラ修道院にも祭壇が設けられていた。

 

コペル神父は 反ナチスとの理由で捕らえられ
アウシュビッツ強制収容所に入れられた。

餓死刑を宣告された男性の身代わりになって
自ら餓死刑を受けて命を絶ち その男性を助けた。

1941年8月14日享年47歳。
 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 143 松葉杖   

2018-09-11 | ポーランド紀行

 

 

聖堂内の壁に沢山の松葉杖が飾られている。

 

1655年 スウェーデン軍はワルシャワ
 クラクフを占領し チェンストホーヴァも攻撃したが

ヤスナグラ修道院がある
チェンストホーヴァは占領できなかった。

これは 黒いマリア様の加護により 
街が守られた奇跡として ポーランド全土に広まる。

その奇跡のマドンナ のことを知った
足に障害を持つ人々が
ヤスナグラ修道院へ 巡礼に訪れるようになり
 祈りを捧げるうちに障害の足が 次第に癒され
 帰るときには松葉杖は不用となり
 その証拠として置いていったものだという。

しかしながら 先に見てきた
アウシュビッツ(5号棟「犯罪証拠」8月14日)でも
松葉杖や義足を見てきたが 

こちらは「生かされた証」 
一方は「強引に命を奪われた証」。

同じ松葉杖でも 
人間世界で繰り広げられる有様・・・

何とも言えない気持ちなる。

 

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 142 ヤスナ・グラの聖母   

2018-09-10 | ポーランド紀行

 

縦121.8×横81,3cm

 

聖堂の「黒いマリア」はよく見られなかったが
 騎士のホールには複製画飾られていた。

黒いマドンナの正式名称は「ヤスナ・グラの聖母」。

1382年 イコンはヤスナ・グラ修道院を建てた
オポーレ公ヴワディスワフによって
エレサレムからチェンストホヴァに到着し
この修道院に安置された。

顔には2本の傷跡がついているが 
これはモンゴル人がこの黒いマドンナを盗もうとした時に
黒いマドンナが突然重たくなり
盗めなかった腹いせに切りつけたという。


またマドンナの顔が暗いのは


「糸杉という黒っぽい木の板に描かれたから」
「コンスタンティノープルに置かれていた時に火災があって黒くなった」
「灯明の煤で黒くなった」等 諸説あるが


それで「黒い聖母」の異名があり
 一般にはこの呼び名で呼ばれている。

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 141 衣装   

2018-09-09 | ポーランド紀行

 

 

「黒マリア」が纏う衣装はなんと8種類もあって

顔や手の部分をのぞいて

上から装飾的な“衣装”をかぶせることができ

機会ごとに衣装替えするそうだ。

修道院内に博物館があり

世界中から寄贈されたカトリックの装飾品とともに


その一部が展示されている。


当然に抱かれているキリストの衣装も衣替えしている。


今年のマリアの衣装は琥珀色でした。



正門壁に掲げられていた画のマリアの衣装が正式のようです。

 

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 140 「黒いマリア」   

2018-09-08 | ポーランド紀行

 


額の銀の覆いが開かれ 黒いマドンナ姿をみせる。

    

正午のミサが直前とのことで 急ぎ聖堂内に案内される。

ミサの邪魔にならないように祭壇脇を通り裏側を抜ける。

 

トランペットのファンファーレが聖堂内鳴り響き
祭壇中央の額の銀色の覆いがせりあがり 
金色の衣装をまとい少々うつむき加減の
「黒いマリアのイコン」が現れた。

左腕には幼児イエスが抱かれている。


イコンは1384年にパウロ神学者たちが寄進。

聖母を拝めば禁煙の誓いが叶えられたり
目が見えるようになったり

病が治るなどと口コミで広がり
国民の篤い信仰を集めるようになった。

 

 

 

                         一心に聖母に祈りを捧げる人々

 





 ミサが終わり再び額には銀の幕が下りた。

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 139 ヨハネ・パウロ2世門   

2018-09-07 | ポーランド紀行

 

 

 

参道から門をくぐって院内に入るが 
この門はポ ーランド出身の 第264代教皇
 ヨハネ パウロ2世(1920-2005)の名が冠されている。

ヨハネ パウロ2世は 法王に就任したとき
 バチカン内のプライヴェート・チャペルに飾ったのが
ヤスナ・グラの「黒い聖母」の画であった。


それでも 即位直後は 
第二バチカン公会議の方針を慎重に守り
中立的な立場をとり 
マリアへの信仰を表に出さなかった。

1981年 法王がバチカンのサン・ピエトロ広場で
テロリストにより狙撃され
臨終者のために行う終油の秘蹟まで
施されたほどの重体であったが
奇蹟的に一命をとりとめた。

自分が助かったのは 発射された弾丸に手を添えて
弾道を変えてくれた聖母のご加護であると確信
した
ヨハネ・パウロ2世は 2年後にヤスナ・グラ修道院に赴き
「マリアよ 私のすべてはあなたのものです。」
との金言をもって 自分の司牧的使命を委ねている。

これ以降祈りを公表している。



ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 138 参道  

2018-09-06 | ポーランド紀行

 


駐車場から修道院に向かう。


かつて要塞でもあった修道院は

城壁に囲まれているが いくつかの門がある。

その参道の両側には世界中から巡礼者が来るので

世界各国の国旗がたなびいている。

日本の旗も見える。

そして正面には

高さ105mもある修道院の塔も迎えている。

 

 

 

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 137 ヤスナ・グラ修道院  

2018-09-05 | ポーランド紀行

正門側から


ヤスナ・グラ修道院は 標高293mの高台に建っている。 

創建は1382年 ピアスト家のオポルチク公の命で
聖パウロ修道会のために建造

その後 1632年から1684年にかけて改修されている。

修道院には 外観はバジリカ様式
 内装は バロック様式の聖堂と

黒いマリアを祀る教会と 2つの建物で構成されている。

聖堂には 高さ105mの塔が聳えるが
緑色の屋根とクリーム色の外観と調和して美しい。


現在も100人ほどの修道士が起居している。


 

 

 


ポーランド・ヤスナ・グラ修道院 136 チェンストホーヴァ  

2018-09-04 | ポーランド紀行

 

チェンストホーヴァの町からヤスナ・グラ修道院を望む

 

ポーランド最大の巡礼地「チェンストホーヴァ」へ。

 クラクフから北北西ワルシャワに向かって途中
 シロンスク県のチェンストホーヴァへは バスで3時間。

ポーランドを代表するカトリックの巡礼地として
ヤスナ・グラ修道院詣で 毎年1千万人もの巡礼者が
ポーランドだけでなく世界各地から集まる。


特に8月15日の聖母被昇天の日には、
ポーランド各地からヤスナ・グラを目指して
歩いてやってくる信者でにぎわう。

ポーランドは、国民の95%以上がキリスト教徒で
そのほとんどがカトリック
聖母マリアへの信仰が厚いことが特徴だ。

 ヤスナ・グラという言葉は
「明るく澄んだ山」「光の丘」という意味で

この修道院が標高293メートルの高台にあって
他に高い建物がないことから街のどこからも望める。


 

 

  こちらは修道院から街を望む

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 135 「戦場のピアニスト」

2018-09-03 | ポーランド紀行

 

                    前列左が シュピルマン                   (NHK・BSから)

 

前回 NHK・BS番組で 映画『戦場のピアニスト』の
モデルとなったユダヤ系ポーランド人の
ピアニストのシュピルマンと近衛秀麿と関係があったこと
また そのシュピルマンが来日していたことも知る。

近衛秀麿との関係は 
秀麿が日本への亡命を手助けした

著名なピアニスト  レオナード・クロイツァーが
ベルリン音楽大学教授であったとき
教えたのがシュピルマンだった。

レオナード・クロイツァー(1884-1953年)は 
1933年 再来日し 近衛秀麿の求めに応じて帰独せず
1937年から亡くなるまで
東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授をつとめた。

そして1964年「ワルシャワ・ピアノ五重奏団」として

シュピルマンを招き 公演会を開演していた。

 

ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000年)は
1933年 ワルシャワでポーランド放送の
ピアニストとして音楽家活動を始める。

1939年 ヒトラーのポーランド侵攻により
第二次世界大戦が勃発する。


ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによる

ユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を
目の当たりにする。


家族全員が絶滅収容所送りとなり、
ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、

ドイツ軍の将校 
ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって
命を救われた。

戦後はポーランド放送へ復職した。

1946年 戦時中の体験をまとめた
「ある都市の死」を出版し

2002年にはこれを原作とした
映画「戦場のピアニスト」が公開された。

                                (ウキペディアから)

                                                           (NHK・BSから)

 

 

(2018/08/14 朝日新聞)

ポーランドと日本との文化交流での話題がここにもあった。

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 134 近衛秀麿

2018-09-02 | ポーランド紀行

 

  (NHK・BSから)



ナチスの迫害からユダヤ人を救った話として
 「杉原千畝」「シンドラーのリスト」

 前に何度か触れた。
 

NHK・BS「戦火のマエストロ・近衛秀麿
 ~ユダヤ人の命を救った音楽家~」で 

近衛秀麿も同じように迫害を受けた
ユダヤ人音楽家を逃亡させる
人道的な活動をしていたことを知る。

近衛秀麿(1898-1973)は 
名門華族・近衛家の二男で 
兄は首相となった近衛文麿。

独学で音楽を学び 1924年25歳で
日本人として初のベルリン・フィルハモニーの

指揮者としてデビューし
 
以後 指揮者として世界中で活躍し
 マエストロ(大音楽家)と認められて
ドイツ中心にオーケストラを
指揮し活躍していた。
 
第二次世界大戦が勃発した後も
ドイツに留まって 近衛文麿の弟として
日独親善の先頭に立って
 戦乱に傷つく欧州各地で
指揮棒を振り続けるとともに

自らの特殊な立場を活かし
身に危険がぶことも顧みず
迫害を受けたユダヤ人音楽家の
国外逃亡を陰で手助けしていた。


その人数は約50人にも及ぶとも。

また ナチスに占領され戦火の中であった
ポーランドでも演奏会を行っていたという。


その時の演奏がワルシャワのポーランド劇場で
ポーランド人の演奏家60名で編成された
オーケストラにより「未完成交響曲」を
再現する場面もあった。

 

(NHK・BSから)

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 133 「シンドラーのリスト」 

2018-09-01 | ポーランド紀行

  

工場に向かう予定が手違いでアウシュビッツ収容所に着いた
女性と子供を乗せた列車の場面

この場面 実際に同地で撮影が行なわれた。

しかし 敷地内での撮影許可は取れず
収容所の中から汽車を走らせ到着したように見せるため
門の外側にセットが組まれたという。

史実に基づいて制作されたというが
エキストラやセットは
当時の写真と違いが分からないほど写実的だ。 

映画「シンドラーのリスト」(1993年公開)は

ユダヤ系アメリカ人である
スティーヴン・スピルバーグ監督により制作された。

第66回アカデミー賞で 作品賞 監督賞 脚色賞
撮影賞 編集賞 美術賞 作曲賞の7部門を受賞している。

第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の
組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、
ドイツ人実業家オスカー・シンドラー
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が
経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で
絶滅収容所送りを阻止し、
その命を救った実話をもとにしている。

  

 

     ラストシーンのシンドラーの墓   (DVDから)



彼の墓は彼自身の希望により
エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

オスカー・シンドラー(1908-1974年)は
メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれの
ズデーテン・ドイツ人の実業家。

 

 

 DVD