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会津の旅人宿 地域との交流・旅人との交流が盛んな【会津野】宿主ブログ

地域の話題、旅人のホットな話題、季節のおいしい食べ物の話題など、会津へ旅する人々への話題中心の宿主ブログです。

【会津野】高田の市から考えるあれこれ

2016年12月11日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日は秋にとれたリンゴでアップルパイを焼いてみました。今月は、この画像でいきましょう。

【会津野】中世の高田初市は「会津の初市」のなかでも独自のものだったで記しました「連釈頭吉原氏と高田市」(伊東実)を読んでみました。この文献は、雑誌「歴史春秋第25号」(会津史学会1987.4.1発行)の記事です。

ここでは、会津の初市とは別の視点で、六斎市のことを追っていました。六斎市のはじまりは不詳ですが、寛文5年(1665)の文献で詳しく述べられているので、それより前からはじまったことは確かです。承応3年(1654)に馬市というのがはじまったことも文献でわかっていますが、往古から続くとあり、1384年にはじまった会津若松「簗田市」のあと、自然発生的にはじまったと理解してよいのかと思います。

参考になったのは、市で販売しているものや店がどうだったのかの考察です。

寛文5年(1665)の土地帳によれば、市の日に諸方より持来る売り物として、

布、木綿、真綿、紙、米、大豆、萬穀物、編菜(干し菜のこと)、葛の葉、炭、薪、鍬、臼、杵、楾(はんぞう・・・タライのこと?)、箕、蓑、菅笠、摺臼(するす)、のぼりばし(はしご)、筵、たばこ、この他に季節の品々

また、まちの常設店舗の売り物として、

酒屋、酢屋、味噌屋、塩屋、麹屋、油屋、餅、索麺屋、質屋、鋳物師、絵物師、錫(あめや)、塗師、鍛冶、大工、いさば売(魚屋)、たばこ剥、古手売、染師

とあります。

これらから、農産物そのものを売る店は高田の町にはなく、まちの外から行商に来て市で売っていた様子がわかります。また、加工品や職人などは町に店を構え商売をしていたようです。

さて、寛文10年(1670)から元禄5年(1692)まで、富岡(会津美里町の一地域)在住の商人であった杉原政善氏が書いた日記によると、高田の定期市がもっとも盛んであったのは、寛文年間(1671~1672)、延宝年間(1673~1681)であったとのこと。

この頃の社会状況はいったいどんなだったのか、を、知るためにいろいろと検索をしていたら、素晴らしいブログに出会いました。花鳥風月visual紀行という個人の方のブログです。

1720年に「御蔵入騒動」という一揆が、いまの南会津でありました。南会津は、会津藩ではなく幕府の天領として徳川が直接支配をしている土地でした。それを御蔵入領といいます。会津藩と御蔵入領との境は、高田のすぐ南である永井野との境がそれで、いま風に例えれば、高田は国境の町でした。

会津藩をおさめていた保科正之(1611~1673)の時代、御蔵入領が会津藩に任されていた(ここで任されていたのは年貢の取り立てや地域の政策のこと)こともあり、高田の商人である吉原氏は、御蔵入領での市にも参加し、商売をしていました。

この保科正之の政策は、農民の生産性を向上する成果を上げ、とても豊かな暮らしがもたらされました。そんな時代背景と、市が盛んであった寛文年間と延宝年間が結びつきます。

その後の宝永年間(1704~1711)から正徳年間(1711~1715)にかけ、地震や噴火などの天災により経済が落ち込み、日本全体がデフレスパイラルに陥りました。国家財政を立て直すために課税の強化(年貢取り立ての料率up!)をしたことに端を発し、追い詰められた農民が蜂起した1720年の御蔵入騒動が起きたというわけです。

この過程では、小判改鋳という政策が実施され、通貨供給量を増やし市中のお金を増やすことなどで景気の上昇局面を迎えたり、逆に純な小判に戻し景気の後退局面を迎えたりということが起きました。なんだか、現代の黒田バズーカ(異次元的量的緩和)とテーパリング(量的緩和の縮小)そのものが江戸時代に行われたわけです。

御蔵入騒動が起きた頃は、金融政策が行き詰まり、この解決に大岡忠相(時代劇で有名な大岡越前守のこと)が活躍し、いまで言うリフレ政策を実行し、景気が上向いてきました。

高田の市も景気に翻弄されながら活気が上下していたことがわかります。そんななか、もう一度危機を迎える出来事がありました。「天明の大飢饉」(1782~1788)です。

天明2年(1782)から翌年にかけての冬は、東北地方では雪が少なく気持ち悪いほどの暖冬でした。天明3年の3月に岩木山が噴火、7月には浅間山が噴火し、日差しがさえぎられて農作物の不作が続きます。「暖冬+噴火」は江戸時代の経験則として、凶作になってしまう、と、人々の気持ちにすり込まれていました。

実際に、飢饉により人口が減り、市も衰えるという悪循環が起きてしまいました。

なんだか話が変な方へ行ってしまいますが、アメリカでは御蔵入騒動のように納税者がエスタブリッシュメントを突き落とすトランプ時期大統領誕生のような出来事が起き、利上げに転換したFRBのイエレン議長を事実上追放し、大岡越前守のような方向に向かう兆候が出てきました。ただ、日本の金融政策は足踏みしている感じがしますが。

大地の様子は、さきに述べた「暖冬+阿蘇山噴火」が平成28年にありました。飢饉により人口が減るという問題は江戸時代よりもだいぶ克服されていますが、凶作は避けられないかもしれません。

このような状況のなか、いまを生きるわたくしたちは、凶作により農村を追われる人々が出ないように考え、地域経済のために市を再び盛んにし、持続的な暮らしを続けるための行動を起こすしかありません。

ただ、御蔵入騒動は、多くの農民が蜂起したのに、幕府の役人が南会津の現地で農民たちを締め上げ、江戸まで向かった勇者が勝手に一揆を起こしたとして成敗させられ、終わらせてしまいました。いうなれば、無駄死となってしまいました。

当時のように直訴するのではなく、実際に現地で自らの力で他力本願でない行動をすることが求められているのかも知れませんね。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】「嫌い」から「好き」へ

2016年12月10日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

ここ最近、歴史をひもとくことに喜びを覚え、会津の初市を中心として、地域の歴史ばかりを調べています。

子供の頃、私のもっとも「嫌い」な科目は歴史でした。年代と出来事を記憶するだけの科目だと思い込んでいましたので、そんなことをして「いったい何の役にたつの?」と思っていました。

大学では「数学」を専攻し、歴史はもっとも遠い学問として、関心すらもたないまま、ずっとこの歳まできてしまったのです。

東日本大震災の避難受け入れを経験した頃、「数学」の目指す普遍的な解析では説明できないような出来事が社会で次々と起こり、長い歴史の中で起きたさまざまな出来事を経験則として「統計的」に説明することが、理解を促す補助線として作用すると感じるようになりました。

しかし、「嫌い」だったものに「関心」をもつことはなかなか難しく、強制的に何冊か「世界情勢」の本と「社会学」の本を読むことで、その「関心」を自分に持たせるようにしたことが思い出されます。

このたび、そういう転換をしっかりと説明している本に出会いました。

「人生を面白くする『好き』になる力」(山田五郎著)です。

この本では、「好き」と「嫌い」を客観的に分析し、どうやったら「嫌い」を「好き」に出来るかや、「好き」を「飽き」ずに継続することなどが考察されています。

私にとっての歴史は「嫌い」でありましたが、なんと知らぬ間に「好き」になってきています。いま、同時並行で「げんきな日本論」(橋爪大三郎、大澤真幸 共著)も読んでいるのですが、こちらは日本史で勉強するような出来事を社会の背景とともに、多分野の学問視点で対談形式に書き著したもの。

本の副題に「日本ってこんなにおもしろい!」とありますが、たむろする国民性や言いたいことを言えない空気が支配する日本って「嫌い」だなと思うところがありましたが、おもしろい国だなと思うようになってきたら、知らぬ間に「好き」になってきているようです。

人工知能の世界では、普遍的な「理論」でコンピュータの動作を決定するよりも、過去のヒトの行動をビックデータとして集め、それを統計的に処理して動作を決める手法が中心となっています。

歴史を知るということは、近代ではレアな出来事も、長い歴史とともにビッグデータのように集積することで、普遍理論で説明が難しい事柄も統計的に説明出来ることに近づくと感じます。

歴史が「好き」になってきました。これを継続させるために「飽き」ない方法は、山田五郎さんの本から得た知識を活用していこうと思います。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】中世の高田初市は「会津の初市」のなかでも独自のものだった

2016年12月09日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日、福島市の福島県立図書館まで出かけてきました。【会津野】会津美里町の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」にてご紹介した「影像 会津の初市」を視聴するためです。

約35分の影像を見て、2つの発見がありました。

1つは、会津若松大町の「初市(十日市)」と同時に「俵引き」が行われていたのは、明治4年が最後だったということ。

明治4年といえば、廃藩置県が行われ、会津藩が消滅し、福島県が誕生した年です。

会津若松の俵引きで願うこととして「城下の安泰」がありました。会津藩消滅とともに、町の安泰の必要性を感じなくなったか、それとも一揆のような団結を阻止するために禁止したのかどうかなどと想像させられます。なぜなら、明治維新が起きた明治元年から、会津一円で会津世直し一揆が起きていたからです。

高田と坂下のような農村の中心地では「城下の安泰」という意向はもともとなかったでしょうから、関係なく続いたのかもしれません。

もう1つは、市神様の春日大神は「山の神」、住吉大神は「海の神」であることです。

見守る市神が、山の神と海の神であるのは、平場で暮らす人々の自然に対する畏敬の念なのだろうかと感じるところです。

★ ★ ★

この他に、図書館で出会った資料がありました。平成15年に藤田定興さんという研究者が「福島史学研究第76号」に、中世の高田初市の図にある「タンクワ屋」と「風呂屋」についての考察をしている雑誌がありました。

前回のエントリーでは、「タンクワ」の「クワ」が「鍬」なのではないかと推測しましたが、実際は行脚僧が宿泊する禅院内の寮舎である「旦過寮(たんくわりょう)」の「旦過」でありました。つまり、旅するお坊さんが宿泊するところである宿という意味です。風呂屋は名の通り風呂屋ですが、托鉢をする虚無僧が「風呂坊主」と呼ばれ、風呂炊きを施しとしていたところから、タンクワ屋と風呂屋ともども、宗教的に施しの思想を持ったものであっただろうとまとめています。

このように、高田初市は、仏教思想の強い側面があったことが、ここからも強くうかがえます。

わたくしの稼業は旅人を泊める宿屋です。そして風呂屋は、伊佐須美神社のすぐ川向いに温泉「あやめ荘」があります。

ますます中世の高田市を復活させたくなってきた私です。用意するものは「阿弥陀如来」、「薬師如来」、それを祀る仮設式のお堂、中御堂(これも仮設式)。あとは、高田の商人たちに幅広く声をかけ、参加を募ることでしょう。「中世の初市のまち『高田』」を夢見て"行動開始"というところでしょうか。

藤田定興さんの考察の参考文献に「連釈頭吉原氏と高田市」(伊東実)というものがありましたので、これを読んでさらに初市の考察を深めたくなりました。そちらはそのうち報告します。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】中世の高田初市に出ていたお店

2016年12月07日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日は【会津野】高田の大俵引きと初市を投稿しました。

今日は、1675年に高田の市立て方式が敗北してしまうまでのあいだ、高田の初市にどんなお店が出ていたのかを調べてみます。

(この下には画像があります。Facebookでご覧の方は、ブログ本体をクリックしてご覧くださいませ)

「中世商人の世界」(国立歴史民俗博物館編)には、このようにお店のことがまとめられていました。数えると上町は26職種なので、間違いがあるかもしれませんが、大方あっていると思います。

薬師如来を祀る下町(12店)からみていくと、畳・筵・笠縫い・蓑売りは名のとおりなので説明はいらないと思いますが、その他については次のような職業です。

「いたのごぜ」・・・ごぜ(瞽女)とは、眼病を患った女性たちが自活するために三味線と唄を習い覚え、米などの農産物と引き換えに芸を披露した女性のことを言います。

「傾城」・・・「けいせい」と読み、絶世の美女のことを言います。さすがに青空の元の市で身売りということはないでしょうから、美しい姿を売り物にしていたのかも知れません。

「白拍子」・・・「しらびょうし」と読み、歌舞をする芸人のこと。

下町では藁を編んだ品物と、芸能サービスを売っていたことがわかります。下町は会津高田駅に近いところなのですが、いまは芸能の面影はなく、ちょっと驚きに感じるお店の構成です。

★ ★ ★

次に薬師如来を祀る上町(48店)を、衣食住に分類してから見てみましょう。

【衣】衣類の関する物・・・呉服、紺掻き、針

【食】食べ物・・・朱米、大豆、伊勢物(酢?)、塩、あい物(塩魚)、草物(海草)

【食】食器・調理用品・・・桧物、白器(木地)、ごき(御器)、土器(カワラケ)、鍋、釜、灰、炭

【住】その他生活用品・・・紙、弓矢、蝋燭、油、鍛冶、番匠、差笠、提灯、櫛


【衣】裁縫については、針屋があるものの、生地屋がありません。木綿生地を売る店があっても良さそうなものですが、染め物屋(紺掻き)がいるので、布を編むのは庶民自らが行い、染め物は職人の手を借りたのかも知れません。

【食】穀物や野菜などは、朱米屋と大豆屋しか見当たりません。朱米というのは想像なのですが、お赤飯のようなお祝い用のものだったのかなと感じます。農村であるが故に、米や雑穀、野菜などは、自家栽培していたのでしょうか。酢、塩、塩魚、海草は、高田では採れないものなので、他の地域から行商に来ていたのだろうと思われます。調理用品として、木の器(白器)や木の曲げ物(桧物)、漆などを塗った御器、釉薬を塗らないせともの(カワラケ)、鍋、釜など、台所や食卓で使う品々で賑わった様子が見えます。灰は、山菜のアク抜きに使ったのでしょう。

【住】明治11年に会津を旅したイギリス人女性のイザベラバードが、高田では紙漉きが盛んだったことを記しています。明かりを灯す蝋燭、提灯や油、狩りに使う弓矢、鉄加工の鍛冶屋、工芸品を扱う番匠、櫛屋など、日常の生活用品を扱う店も、大きな存在であったことがわかります。

★ ★ ★

現代の初市では、起き上がり小法師と福を呼ぶ風車が欠かせませんが、それは番匠が扱っていたのだと思います。衣食住に関する生活用品の他で目につくのは、下町の芸能くらいなので、現代でいうサービス業の分野はほとんどなかったのでしょう。ただ、反対に農具を扱う店が見当たらないのが不思議に感じます。

昨日、文献として示した連釈之大事「修験山伏の市立図」では、60の店の他に「タンクワ屋」と「風呂屋」が下町の外れにあります。タンクワ屋というのは、鍬(くわ)を扱う農機具の店なのかもしれません。風呂屋が市に登場するのもなかなか理解し難いところですが、私が昨年ドイツで見たクリスマスマーケットに、箱蒸しのように温まるサウナ屋があったのを覚えています。そんなものかなとも思いますが、14世紀にそんなものがあったとも考えにくいし、謎が残るところです。

私は、立場として、観光を活かしたまちづくりの視点で物事を見ることが多く、どうしても、中世の初市を加工資源のネタとして見てしまいます。しかし、実状は暮らし中心のものだったようです。ただ、中世の行事を再現できたら、中世を体験できるというレアな観光資源になるかもしれないなどとも考えさせられました。

謎がたくさんある中世の暮らしですが、昔の様子をあれこれ想像するのも、楽しいものですね。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

【続き】→【会津野】中世の高田初市は「会津の初市」のなかでも独自のものだった

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【会津野】高田の大俵引きと初市

2016年12月05日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

12月2日のエントリー【会津野】会津美里町の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」にて「会津の初市」をご紹介しましたが、今日はもっと詳しく調べてみたことをお知らせしましょう。

ときは14世紀の頃、葦名直盛公(1323〜1391)が会津をおさめておりました。その頃、武士を除く一般庶民の間接統治をする権限、つまり、いまで言う行政の権限を任される仕事を「商人司(しょうにんつかさ)」と言いました。この商人司として任命されていたのが、会津若松の簗田家代々のお方で、19世紀の明治維新まで続いたといいますから、500年近くも簗田家が市長のような職を務めたというわけです。簗田家はその他にも「検断(けんだん)」という刑事事件を判決する仕事も受け負っていました。これは裁判官の仕事もしていたと考えて良いでしょう。

商人司と検断筆頭の屋敷があった会津若松の街なかである大町四ツ辻という場所で、1384年の正月十日に、城下の安泰、五穀豊穣、商家の発展を祈願し、景気相場の行方を占う行事をはじめたのが「俵引き」という行事です。これは俵の両側につなをつけ、商人と農民が引っ張り合ってその年を運勢を占うというもので、商人が勝てば相場上昇で商売繁盛、農民が勝てば五穀豊穣すなわち豊作となるというものです。会津若松の俵引きは、いつのまにかその風習がなくなってしまいましたが、会津美里町高田と会津坂下町では、現在でもその風習が残ります。

俵引きが終わると、市が開かれます。当初は「簗田市」という名ではじまり、これが「十日市」という名に変化しました。簗田市を手本として、会津各地に市の風習が拡がったことから、各地で行われる日程に応じ、市の名が変わってきたのでしょう。

簗田市では、市神様(いちがみさま)として、住吉明神と春日明神を祀り、俵引きでの占いと庶民の市の様子を、市神様に見守っていただくこと。それが正月十日の行事として定着しました。

★ ★ ★

さて、会津美里町高田で行われている「大俵引き」と「初市」は、会津若松の「俵引き」と「簗田市」を手本にしてはじまりましたが、会津若松と高田という場所の性質で、少し違う部分がありました。

会津若松という町は、城下町として会津の中心都市という位置づけの場所です。これは14世紀の頃も、いまも同じ位置づけです。一方、高田は広大な農地に囲まれた農村の中心地で、神の信仰としては伊佐須美神社、法用寺などの仏教信仰も盛んな町で、修験僧が町にいる「神仏混合」の農村地域です。

高田で初市を取り仕切っていたのは、連釈商人(連雀ともいう)の吉原家で、いまで言えば商工会会長のようなものかなと思います。当時は、修験は連釈商人より上位者であるとされていました。簡単に言えば、商人はお坊さんの言うことを聞いて商売するというものでした。

修験僧は、格別な観念装置である女性の子宮と、宿町と市立ての規定を宗教的な意味付けで語り、これを見守るのは「阿弥陀如来」と「薬師如来」であるとしました。

阿弥陀如来は、阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに立てた48の誓願「四十八願(しじゅうはちがん)」という言われがあります。一方、薬師如来は、薬師経の十二の大願があります。

これらの願いひとつひとつを店に割り当て、合計60の店を出すのが「高田の初市」とされたのです。

(画像出展)連釈之大事「修験山伏の市立図」(国立歴史民俗博物館編「中世商人の世界」より)

中程にある「中御堂(なかみどう)」は、阿弥陀如来の願いと薬師如来の願いを隔てるところにあり、ここに住吉明神が祭祀されていたと考えられていますが、記録は残っていません。

このように市が立てられてから300年近く経過した1675年、商人司の簗田家と連釈頭の吉原家で争いが起きました。喜多方で行われている小田付市(おだづきいち)の支配権をめぐり、有利な場所、すなわち、ものが一番たくさん売れる「一丁目一番地」をどちらがとるかということを発端に、どちらが正当な市の主催者かという全面対決に発展してしまいました。

これを審理したのは、検断である簗田家が当事者だったことからか会津藩公事奉行が行い、判断の決定打は、どちらが市神様の祭祀を主催しているかということでした。「市神」の記録を残していた簗田家が有利となり、吉原家は敗北となりました。

これにより、高田では、中世の市立ての風習を継続することが出来なくなりました。

ただ、吉原家は黙っていません。形式より実を取る方を選択したのか、10年後の1685年には高田市が開かれている記録があります。初市とはだいぶ異なるものの、六斎市と呼ばれる仏教思想の六斎日に市を立てるようになり、毎月4日、8日、14日、18日、24日、28日の計6回を、町内で輪番として市を立て、これを吉原家が主催しました。

昭和の時代に入ってからは、このうち14日の市が初市として残り、現在は1月の第二土曜日に市が立ちます。1675年の判決を守り、「住吉明神」と「春日明神」を市神として祭祀しているところは、なんともすごいなと感じるところです。

ただ、実際には、1675年の判決の効力はもうないでしょうから、中世の高田独自のものである阿弥陀如来と薬師如来を祀り、60の店を出す高田初市の風習を復活させ、大俵引きに引き続き市が賑わうような正月の行事とするようなことをしてみたいものです。

(参考文献:「葦名会報」No.6,No.7(葦名顕彰睦会発行)、「中世商人の世界」(国立歴史民俗博物館編))

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

【続きとして】→【会津野】中世の高田初市に出ていたお店を記しました。

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