おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。
昨日は秋にとれたリンゴでアップルパイを焼いてみました。今月は、この画像でいきましょう。
【会津野】中世の高田初市は「会津の初市」のなかでも独自のものだったで記しました「連釈頭吉原氏と高田市」(伊東実)を読んでみました。この文献は、雑誌「歴史春秋第25号」(会津史学会1987.4.1発行)の記事です。
ここでは、会津の初市とは別の視点で、六斎市のことを追っていました。六斎市のはじまりは不詳ですが、寛文5年(1665)の文献で詳しく述べられているので、それより前からはじまったことは確かです。承応3年(1654)に馬市というのがはじまったことも文献でわかっていますが、往古から続くとあり、1384年にはじまった会津若松「簗田市」のあと、自然発生的にはじまったと理解してよいのかと思います。
参考になったのは、市で販売しているものや店がどうだったのかの考察です。
寛文5年(1665)の土地帳によれば、市の日に諸方より持来る売り物として、
布、木綿、真綿、紙、米、大豆、萬穀物、編菜(干し菜のこと)、葛の葉、炭、薪、鍬、臼、杵、楾(はんぞう・・・タライのこと?)、箕、蓑、菅笠、摺臼(するす)、のぼりばし(はしご)、筵、たばこ、この他に季節の品々
また、まちの常設店舗の売り物として、
酒屋、酢屋、味噌屋、塩屋、麹屋、油屋、餅、索麺屋、質屋、鋳物師、絵物師、錫(あめや)、塗師、鍛冶、大工、いさば売(魚屋)、たばこ剥、古手売、染師
とあります。
これらから、農産物そのものを売る店は高田の町にはなく、まちの外から行商に来て市で売っていた様子がわかります。また、加工品や職人などは町に店を構え商売をしていたようです。
さて、寛文10年(1670)から元禄5年(1692)まで、富岡(会津美里町の一地域)在住の商人であった杉原政善氏が書いた日記によると、高田の定期市がもっとも盛んであったのは、寛文年間(1671~1672)、延宝年間(1673~1681)であったとのこと。
この頃の社会状況はいったいどんなだったのか、を、知るためにいろいろと検索をしていたら、素晴らしいブログに出会いました。花鳥風月visual紀行という個人の方のブログです。
1720年に「御蔵入騒動」という一揆が、いまの南会津でありました。南会津は、会津藩ではなく幕府の天領として徳川が直接支配をしている土地でした。それを御蔵入領といいます。会津藩と御蔵入領との境は、高田のすぐ南である永井野との境がそれで、いま風に例えれば、高田は国境の町でした。
会津藩をおさめていた保科正之(1611~1673)の時代、御蔵入領が会津藩に任されていた(ここで任されていたのは年貢の取り立てや地域の政策のこと)こともあり、高田の商人である吉原氏は、御蔵入領での市にも参加し、商売をしていました。
この保科正之の政策は、農民の生産性を向上する成果を上げ、とても豊かな暮らしがもたらされました。そんな時代背景と、市が盛んであった寛文年間と延宝年間が結びつきます。
その後の宝永年間(1704~1711)から正徳年間(1711~1715)にかけ、地震や噴火などの天災により経済が落ち込み、日本全体がデフレスパイラルに陥りました。国家財政を立て直すために課税の強化(年貢取り立ての料率up!)をしたことに端を発し、追い詰められた農民が蜂起した1720年の御蔵入騒動が起きたというわけです。
この過程では、小判改鋳という政策が実施され、通貨供給量を増やし市中のお金を増やすことなどで景気の上昇局面を迎えたり、逆に純な小判に戻し景気の後退局面を迎えたりということが起きました。なんだか、現代の黒田バズーカ(異次元的量的緩和)とテーパリング(量的緩和の縮小)そのものが江戸時代に行われたわけです。
御蔵入騒動が起きた頃は、金融政策が行き詰まり、この解決に大岡忠相(時代劇で有名な大岡越前守のこと)が活躍し、いまで言うリフレ政策を実行し、景気が上向いてきました。
高田の市も景気に翻弄されながら活気が上下していたことがわかります。そんななか、もう一度危機を迎える出来事がありました。「天明の大飢饉」(1782~1788)です。
天明2年(1782)から翌年にかけての冬は、東北地方では雪が少なく気持ち悪いほどの暖冬でした。天明3年の3月に岩木山が噴火、7月には浅間山が噴火し、日差しがさえぎられて農作物の不作が続きます。「暖冬+噴火」は江戸時代の経験則として、凶作になってしまう、と、人々の気持ちにすり込まれていました。
実際に、飢饉により人口が減り、市も衰えるという悪循環が起きてしまいました。
なんだか話が変な方へ行ってしまいますが、アメリカでは御蔵入騒動のように納税者がエスタブリッシュメントを突き落とすトランプ時期大統領誕生のような出来事が起き、利上げに転換したFRBのイエレン議長を事実上追放し、大岡越前守のような方向に向かう兆候が出てきました。ただ、日本の金融政策は足踏みしている感じがしますが。
大地の様子は、さきに述べた「暖冬+阿蘇山噴火」が平成28年にありました。飢饉により人口が減るという問題は江戸時代よりもだいぶ克服されていますが、凶作は避けられないかもしれません。
このような状況のなか、いまを生きるわたくしたちは、凶作により農村を追われる人々が出ないように考え、地域経済のために市を再び盛んにし、持続的な暮らしを続けるための行動を起こすしかありません。
ただ、御蔵入騒動は、多くの農民が蜂起したのに、幕府の役人が南会津の現地で農民たちを締め上げ、江戸まで向かった勇者が勝手に一揆を起こしたとして成敗させられ、終わらせてしまいました。いうなれば、無駄死となってしまいました。
当時のように直訴するのではなく、実際に現地で自らの力で他力本願でない行動をすることが求められているのかも知れませんね。
今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。
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